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新経文『再び政治を論ずる』を勉強して得たちょっとした体得


 文/大陸大法弟子

(明慧日本)師父の新経文を繰り返して勉強して、二つの体得があった。

 一、衆生を救い済度し、邪党と邪党文化の毒害から抜け出させるには、わたしたち大法弟子が必ず自分自身でまず邪党文化の考えから抜け出し、政治と邪党がごろつき政権をまもるために変異させた、いかなる観念をも持たない歪曲された政治を見分けなければならない。

 中共邪党のない社会文化の中で政治は中性名詞であり、まるで経済や、教育のように、人間社会にもともとあった自然的な存在であり、「政治をやる」のは罪だとか、「政治をやらない」といい民衆だという説はない。私個人の認識では、人にとって政治は公民の権利であり、責任でもある。邪党文化は、政治を人を殴る棒に変えた。少しでもこの二文字を言うと、すぐ緊張してしまい、早くそれを避けようとする。

 2003年の事である。当時、邪悪はわたしを迫害していたが、罪名が見つからなかった。その時、ある警官が私を脅して、「共産党があなた達法輪功を敵だと定めたから、あなたにこれだけ大きな罪があると言ったら、これだけ大きな罪があるのだ。何の証拠も要らない、これが政治なのだ。分かるか?」と言った。「共産邪党があなたをこうだと決めたらこうだ、何の証拠も要らない」ということこそ、邪党のごろつき論理であり、これこそ邪党が「政治」に下した定義である。正常な考え方を持った人にとって、これはどんなにでたらめであり、ばかげているだろう。

 実は「迷信を信じる」、「資本主義をやる」、「反華勢力」などなどは、すべて邪党が作り上げた人を殴る棒である。邪党と一致しなければ、あなたを棒で殴る。このようなものは自分の邪悪な統治のためならいつでも作り出す。いつも文化の中にもともとあった名詞をそのまま使って、歪んだ内函をそのなかに強制的につけ加えているので、もっと人の目をごまかしやすく、人の思想を戸惑わせやすい。

 わたしたち大法弟子は迫害を暴露し、世の人々に真相を伝えるだけで、世間の権力に対して如何なる要求もない。常人社会の理でみても、人の良知と善良を呼び覚まし、社会的集団関係を完全にさせる、これはまったく正常な社会活動であり、国民の正常な権利である。しかも人々に利をもたらし、何の害もない。当然ながら、わたしたちの目的は人を救うことであり、私たちは常人を超える法理で自分を指導して、正々堂々と真相をはっきり伝えるのであって、何も心配することも、何も怖がることもない。 

 二、衆生を救い済度する出発点をしっかり把握しなければならない。「政治をやる」にせよ、「政治をやらない」にせよ、大法弟子がしていることは、ただ人を救うことであり、マスコミやら、芸術やら、ただ常人の中のこれらの形式を利用するだけであり、これらの中の、変異された内函を利用するのではない。これらの形式も師父が法を伝えるために創ったものではないだろうか? その存在目的もわれわれが今日衆生を救い済度するためではないだろうか? 人類がその内函を変えたのであり、形式そのものには問題がない。正しく使えばそれていいのだ。

 同修は新経文の意味は政治に参加してもよいと認識していたが、わたしはある日そうではないと悟った。法は永遠に変わらないものだからこそ、宇宙の衆生は従うのだ。師父はずっと前に「大法は絶対に政治に参与しない」と「修煉は政治ではない」を説かれた。わたしは経文『再び政治を論ずる』は、もう一つの角度から「修煉者は人間の権力に執着する欲望を放棄している」という理を教えたと体得した。修煉者は「身は俗世にいながら、心はその外にあり」、権力に対して興味がなく、世間のあらゆるものにも執着しない。常人のなかの正義のある人々の行動は、私たちがみる限りただ天象の変化がもたらした社会形勢であり、みんな大法のためにきたのであり、大法と大法弟子が衆生を救い済度することを際たたせるためにきたのである。神は世間で大法を実証し、衆生を救い済度しているが、人間によって動かされてはいけない。

 2007年4月29日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/2/28/149841.html