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真に信じること

(明慧日本)明慧ネットで同修たちの体験談を見て、私は自分の不足を感じた。長い間、私は自分の執着心を放下できなかったがゆえに、法を実証する活動に悪影響をもたらし、邪悪による影響から抜け出せず、旧勢力の按配から歩み出すことができなかった。

 修煉を始めた当初、私は師父と大法に対して、ただ表面的な部分にとどまっていた。本当に、法に基づいて法を理解することができなかった。その当時、師父の法に対しては信じているものの、好奇心が非常に強かった。しかし、迫害がはじまってから、私は大法の修煉と法を実証することを放棄しなかったが、本当に大法を信じているかどうか、修煉者の基準に達したかどうかについて、私はよくさまざまな言い訳で自分の執着を隠そうとしている。つまり私は、まだ大法に対して真に信じていないと言える。そのため、常人のすべてを放棄する勇気がなく、かえってそれらに左右されてしまう。

 一部の同修は、迫害を前にして以前にように精進せず、中には修煉を放棄する者もいたが、大多数の同修たちは、邪悪による迫害を前にして、彼らの師父と法に対する岩盤ほど堅い信念を見せてきた。彼らは、私に真に信じることとは何かを教えてくれた。私は同修の確固たる信念、法の偉大さ、そして師父の慈悲に感動した。修煉におけるすべての試練は、修煉者が真に師父と法を信じているかどうかを試すためにあるのだと思う。大法に対して、根本的に信じることができない人が法を学ぶときは、常人の観念で法を批判しながら学んでいるのであって、法に対して不敬な行為である。真に大法を信じて学ぶときは、法に基づいて法を学び、法と同化しているのである。さらに、学ぶことで法をより信じるようになる。ゆえに、私たちが真に師父と大法を信じることができれば、私たちが放下できない執着や克服できない困難もなくなるのである。

 以上は個人の考えにすぎないので、間違いがあれば指摘してください。

 2007年5月9日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/5/9/154326.html