「内に向かって探す」ことに対する体得
文/韓国大法弟子
(明慧日本)最近、身の回りで起きた事から、私は大きな体験をさせていただきました。私とある同修は一緒に仕事をしています。ある日彼は突然喉が痛くなって、咳をし始めました。夜の学法後の交流中、その同修は一緒にメディアの仕事をする同修の不満を言い始めました。すると彼の喉がすぐかれて声が出なくなりました。
法理にもとづいて考えると、修煉者は内に向かって探さなければ、問題を解決できません。同修は咳を長く続け、しばらくの時間が過ぎました。このような状況を目にした私は、その同修に対して、まだ探し出していないものがあるなら速く探して下さいと言いました。しかし彼の咳は少しも快方に向かいませんでした。かえって彼の咳は更に激しくなりました。この時、私は問題の重大性に気づいて、どうして私の前に現れたのかと、自分に向かって探し始めました。しかし当日は仕事がとても忙しかったので、心を静めて考える余裕はありませんでした。しかし古い学習者がそのような病業の現象に長くとどまることについて、心の中から不満を感じました。
午後になって、彼の咳は大分治まっていることに気付きました。仕事が終わって、何人かの同修と法を学んだ後に、私は昼間会社であったことを話した後、これから皆さんが咳をした同修のことに対して内に向かって探しましょうと提案しました。
交流は穏やかな雰囲気の中で始まり、すべての人が自分の考えを言いました。私達が交流する1時間余りの中で、その同修は意外なことに1回も咳をしませんでした。それ以後、その同修の咳は完全によくなりました。これは一つの小さくて平凡な出来事ですが、私はその中からとても大きい体験を得ました。
この出来事から私は「内に向かって探す」ことに対して新しい認識を得ました。私は以前、問題に出会う時に、自ら探したことがありませんでした。師父はかつて私達に「彼の事はあなたの事で、あなたの事は彼の事」だと『2002年のワシントンDC法会上で説法』で教えられました。しかし同修が難に会う時にそれを見て、これも自らの事だと考えたことは無かったのです。しかし、他人のことを自分のことと同じように考えて「内に向かって探す」ことが出来るなら、問題は根本的な解決を得るに違いないと体得しました。
2007年5月18日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/5/18/155090.html)
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