二言三言:真に修めることについて
(明慧日本)一部の同修は、自分がよく修めていること、よく実行できていること、または自分が他人の中でさらに完璧になるように実証するため、たとえあまり学法せず、煉功しなくても、少しだけ何かを成就すると、必ず同修に自分がいかにして精進したのか、いかによくできたのかとして、恥じることなく言いふらすことがすでに自然な状態になっている。時間が長くなると、自分ですらそれに気づかなくなる。
師父は「真善忍は法である!」(「忍の限界」)とおっしゃっていたのに、どうして同修は真を修めないのだろうか。自分はいかに大きな知恵があっても、それは法から付与されたものであり、どうして大法を実証しようとせず、自分自身を実証しようとするのだろうか。それに、自分自身を実証しようとするため、宇宙の最高法理である真善忍の真すら修めなくなっている。これは修煉者だろうか。修煉は厳粛であり、修煉者のすべての考えは必ず法に基づかなければならず、心を修めなければならないのである。
2007年5月26日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/5/26/155673.html)
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