寧夏省霊武市:銭志明さんは迫害で身体障害者に、妻は冤罪が晴れないままこの世を去った(写真)
(明慧日本)寧夏省霊武市の法輪功学習者・銭志明さん、朱秀英さん夫婦は法輪功の修煉を堅持したため、過去7年来、中共の残酷な迫害を受け尽くし、1人は迫害されて身体障害者となり、もう1人は迫害されて冤罪が晴れないままこの世を去った。
| 寧夏省霊武市の法輪功学習者・銭志明さんご夫婦 |
銭志明さん(65歳男性)は、もともと寧夏国営霊武農場飛龍企業聨合会社の社長であった。1994年に脳血栓にかかって、正常に出勤できなくなったため、早めに退職した。妻の朱秀英さん(58)は霊武農場飛龍会社所属の酒工場の従業員だった。ひどい婦人病と糖尿病にかかっていたため、彼女も退職していた。脳血栓以外、銭志明さんはまた膵臓炎、萎縮性胃炎、関節炎、慢性胆嚢炎と気管支炎などの病気を患っていた。2人はこれらの病気に苦しめられ、多額の医療費の圧力を受け、心身ともに非常に疲れて、苦しんでおり、少しの希望も見えなかった。
1997年、銭志明さんは偶然に『転法輪』を一冊得た。書籍に書かれた法理は銭さんの心を明るくさせ、銭さんは非常に貴重な書物である『転法輪』が気に入って手放せなくなり、だんだん法を得るようになっていった。妻も一緒に大法を修煉する道を歩み始めた。大法を修煉してから、2人は身体の疾病がすべて消え、影も形もなくなり、毎月の巨額な医療費も節約できるようになり、精神状態が一新し、生活に対して自信と希望を持つようになった。更に不思議なのは、本来、一文字も知らない朱秀英さんがあとになって、『転法輪』を通読できるようになり、寧夏で唯一の学習者として、蘭州の交流会で体験を発表できたことである。これらすべては大法修煉に対する2人の自信を固めてくれた。
銭志明さんは仕方なく路頭に迷う際に、転々として陝西省楡林市に行き、友人と共に私営企業を立ち上げたことがあった。当時、霊武市公安は楡林市公安に連絡して引き続き迫害を行った。楡林市公安は4、5人の警官を、企業と親戚、友人の家に掻き乱しに派遣して、人々をびくびくさせた。楡林市品質監督局は口実を作って企業の原材料を密封して保存しておき、銀行は金を貸し付けることを拒絶し、ユーザーは注文を取り消して、工場は重大な損失を蒙った。銭志明さんは仕方なく友人との共同経営を終わらせ、自分が4万元の経済損失を蒙ったまま、年末にまた霊武に戻ってきた。
2001年3月、絶えない掻き乱しと迫害により、朱秀英さんは精神的な圧力が大きくなり、持病が再発してしまった。糖尿病合併症により、脚は壊死を起こした。銭志明さんが妻を同伴して入院治療している期間中にも、警官は依然として絶えず掻き乱しに訪れた。ひいては銭さんの妻の病状が急激に悪化して、脚を切断した状況下でも、邪悪な警官はまた病室に飛び込み、むりやり銭志明さんを連行した。
2001年5月に、銭志明さんは李明(霊武市公安局副局長)、楊玉強(霊武市公安局政治防衛課の指導員)、張占林(霊武市公安局政治防衛課課長、すでに退職)などの邪悪な警官により留置場に連行された。当時、銭志明さんは持病が再発し始め、厳重な半身不随の症状が現れていた。
2001年中秋節の前日、銭志明さんの身体がまだ完全に回復していない状況下で、邪悪な警官・李明、霊武農場派出所の馬躍林、防衛課の曹居詳をはじめとする十数人が銭志明さんの自宅に飛び込み、朱秀英さんの病状が悪化して、自分で生活の面倒を見られない状況をまったく顧みず、如何なる証明書類を提示せず、強制的に銭志明さんを労働教養所へ連行した。同時に公安局へ連行されたのは銭さんの娘と彼女の1歳8カ月の子供だった。怖がってびくびくした子供が「ママ、ママ…」と痛ましい泣き声を出しても、相手にしてくれる人は誰一人もいなかった。
労働教養所で、銭志明さんは絶えず「法輪大法はすばらしい」と叫んだ。すると労働教養所の呉という警官は銭志明さんの両手を上下のベッドに手錠で嵌めて、斜めにし、立つことも、坐ることも、更に寝ることはできないようにさせた。まもなくして、銭志明さんは再び右の半身不随となり、しゃべると発音がはっきりしなくなった。労働教養所は責任を負うことを恐れて、銭さんを20数日間不法に監禁したのち、家に送った。
2004年夏のある日、霊武市公安局の悪辣な警官、政治防衛大隊の大隊長・楊玉風と農場防衛課副課長・曹居詳は銭志明さんの家で待ち伏せして、外から帰ってきた銭志明さんを拘束し、銭志明さんを迫害した警官に対する提訴に関連するファイルが入っている、外付けハードディスクを奪い去った。
数回に亘る迫害により、銭志明さん夫婦は心身ともに重大な損害を受けた。朱秀英さんは糖尿病とその合併症が悪化し続け、腕の傷口がふさがらない状況下で、またうっかり転んで脚を骨折し、まったく動けなくなり、ベッドで寝たきりになって、大小便が自分でできなくなった。入院治療をしたが好転せず、2006年1月25日(師走27日)に冤罪が晴れないままこの世を去った。
2007年5月26日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/5/15/154864.html)
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