日本明慧
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旧勢力は私たちに何を按排したのか

---農村の同修と切磋


 文/大陸大法弟子

(明慧日本)ある同修は人心を持っていたため、早く肉体を離れていくことになり、私のまわりのある同修は人心を持っていたため、刑務所へ入れられました。さらに病状の同修は、それが「病」と思ったため病院に入院しました。つまり、ひとつひとつ数え切れない、法にかなわない念があったことで、私たちはあまりにも大きな代価を支払いました。

 この一つ一つの法にかなわない念は、いったいどこから来たのでしょうか?自然に生じたのでしょうか? 師父は「『自然』が存在せず、『必然』には必ず原因があるということを皆さんははっきりと認識しなければならない」。(『精進要旨』・道法)とおっしゃいました。しかしこの必然的に現れる念の背後には何があるのでしょうか? それこそ、旧勢力の働きなのです。

 私たちは旧勢力を否定し、旧勢力の按排を認めてはいけません。旧勢力は一体私たちに何を按排するのでしょうか? 当然ながら、私たちがみな知っているとおり、刑務所での災難、肉体からの早い離れ、また、いろいろな魔難を按排しました。しかし、それらはどんな手段を通じてそれを実現するのでしょうか? それらは、なんのよりどころもなく、私たちを刑務所に入らせ、病も災難もなしに死なせることはできません。それらはあなたの法に符合しない一念一念を掴み、絶えず強化し、拡大して、一歩一歩回り道に引きこみ、最後に壊して落とします。

 旧勢力は私達の一念一念を按排し、私達の一念一念を利用してそれらの目的に達するのです。そのため、私たちは必ず自分の一念一念に常に注意しなければなりません。法に符合しないものはすべて取り除くべきです。なぜなら、それらは旧勢力の私たちに対する按排を否定することだからです。これこそ、旧勢力が私たちの空間場に生存する温床を取り除くことです。そうすると旧勢力は自滅するしかありません。そうしないと私たちは旧勢力の按排の中に陥ってしまいます。実際、私たちが多く法を学び、良く法を学び、絶えず内に向けて探し、内に向けて修める過程こそ、一念一念を修める過程であり、同時に旧勢力を否定する過程でもあります。更にはっきり言いますと、師父の話を聞き、師父について行き、三つのことを良くやれば、根本的に旧勢力のすべてを否定することになるのです。

 私の周りにいる農村の同修の中で、少なくともわれわれ地区の農村の同修は冬にはまだよくて、学法グループを作りましたが、一旦、野良仕事が忙しくなると、だんだん、あれこれ求める心が出てきて、ひいてはそれはとても大きいのです。秋になって振りかえってみると、学法グループはすべてなくなり、一部の同修には病態が現れ、一部は何の根拠もなしに怖がる心が生じ、何かをやろうとすると協調が難しいのです。論争し始めるとすべて常人の理になり、一人一人の状態はとても気になります。まさに無頓着で、リラックスし、怠けて、みな自分の身分を忘れて、自分が何のために来たかを知らないのです。

 彼ら自身でさえ、どうやって修煉すれば良いか分らない、と言いました。夢の中で、自分達が屋根でサッカーをしていたが、落ちるというとすぐ堕ちてしまい、敢えて自分の目をしっかりと覆って見る勇気がない!とても危険なのです。

 修煉はきわめて厳しく、無常であり、あなたは師父についていかなければ、旧勢力について行くことになり、中間の道はありせん。あれらのいろんな怖がる心を抱いて、表に出られない人、あれらの自分の生活、自分の住宅、自分の子女に執着し、師父が私たちに要求した三つのことを上手くやれない人は、まさに間の道を歩こうとしているのではないですか?

 ここで、再び「間の道」を歩こうとする同修らに下記の注意を与えます。

 あなたは修煉したければ、師父の話を聞かないといけません、真に修煉しなければなりません。あなたが真に修煉しなければ、旧勢力は本当にあなたを迫害して、あなたに修煉できないようにさせます。なぜなら、真に修煉しない過程こそ、あなたの法に符合しないその一念一念がもたらしたからです。あなたの法に符合しない一念一念こそ、旧勢力が按排したのです。

 個人の悟りであり、適切でないところは、同修の指摘を願います。

 2007年5月28日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/5/25/155524.html