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根本の私の判断基準:自分を実証しているのか、法を実証しているのか


 文/大陸の大法弟子

(明慧日本)大法の修煉は、私から無私無我の状態に向かう過程である。そのため、修煉の過程であれば、常に私の現れがあるにもかかわらずそれに気づいていない。そのため、私たちの修煉の状態は今日にいたっても根本的な変化が見られない。

 たとえば、同修が相互に交流し合うとき、ある同修はいつも自分が常人のときはどうであったか、自分は常人にどのように称賛されたのかを言い出し、あたかも自分は修煉前に非常に良い生命であったかのようで、今は以前と比べて大きな変化はないと言っている。これは、一種の変異した自己顕示の現れである。

 さらに、一部の同修は、常人に体の状況または言動が大きく変わっていると言われたときに、これは他の原因によるものであって、修煉によってこのような変化をもたらしたことについて言及していない。

 師父は、「ご存知のように、修煉の中で人心が取り除かれていなければ、何かをするとき大法を実証しているのではなく、自分を実証しているという現象は最も顕著に現われてきます。このことは破壊作用を働いています。」(「二〇〇七年ニューヨーク法会での説法」)とおっしゃった。

 現在、私たちははっきりと自分の言動は法を実証しているのか、もしくは変則的に自分を実証しているのかを認識すべきである。一人の修煉者として、私たちが知っているように、もし師父の正法がなければ私たちの境遇は非常に無残なものであったと想像できる。今になって、私たちは刻一刻と自分をコントロールし、すべての機会を利用して大法を実証し、大法を高揚すべきである。これも、大法弟子の神聖な使命と責任である。私たちが法を得る前、またはその後の自分がどのように行っていたにしても、今となっても良くない一面が表れていたら、それは私心が取り残されていることであり、自分自身を顕示しているのである。それは、非常に危険な行為である。

 旧勢力は、自己を中心として、私を根本としているため、成住壊滅の必然的な結果をもたらす。大法によってつくられた修煉者ならば、旧勢力の束縛を乗り越え、すべての私の要素を取り除き、根本的に生命の状態を変え、無私無我の状態に達するべきである。

 現在から、私たちは自分の行動は法を実証しているのか、または自己を実証しているのかについて、深刻に反省すべきである。すべての機会を利用して大法を実証することは、修煉者の責任であり、衆生が早く救われるための重要な要素である。

 2007年5月30日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/5/27/155700.html