私の情に対する認識
(明慧日本)情に浸っている常人は、情を非常に大切にし、何でも情に偏り、幸福を求め、幸せな生活と自分を理解できる友人を求めている。しかし、これはあくまでも常人が求めているものである。人間は幾度もの輪廻転生の中で情に惑わされ、たくさんの人が自分の家に帰る道を忘れ、ひいては修煉するにしても、その情に惑わされて精進できなくなった。
修煉者として、常人の物を失うことを恐れ、傷つくことを恐れ、幸福を求めること自体が、私に基づいた考えであり、常人の考えである。
師父は「真に修める」の経文の中で、「実は、皆さんは常人の中にある名、利、情が傷つき苦悩を感じる時、すでに常人の執着心が放下できていないのである。皆さん、必ず覚えておきなさい、修煉そのものが苦しいのではなく、肝心なことは常人の執着を放下できないことなのだ。あなたたちの名、利、情を放下しようとする時こそ苦しいと感じられるのである。」とおっしゃった。
たくさんの修煉者は、常人の情から抜け出せず、内に向けて探すことができず、家庭の不安をもたらし、旧勢力による妨害を受けている。しかし、修煉は常人の世間における幸せな生活を求めているわけではなく、だからといって情を放下して常人との関係をすべて断ち切ったわけではない。修煉とは、すなわちこのどちらもしっかり行うことである。正念を堅め、師父のおっしゃることをしっかり行い、それと同時に仕事をしっかり行う。真相を常に伝えることができれば、どうして情に動じられようか。
実は、師父は法の中で何もかも説法なさっている。魔難が来た時、または心の中の執着を放下できない時、このときこそ私たちが向上するチャンスである。常人の中にあるすべては現象にすぎず、これらの現象は私たちのために存在している。心性を守り、動じられず、すべての良くない要素を取り除き、しっかりと正念を発し、自分たちの道を正しく歩もう。
以上は個人の考えであり、正しくないところはご指摘願う。
2007年6月12日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/6/10/156632.html)
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