日本明慧
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妨害を突破する


 文/中国江西省大法弟子

(明慧日本)私は一時期、学法しようとしても頭に入らず、毎日、努力をしましたが、法を学ぶとすぐに眠くなり、まるで何かにコントロールされていたようでした。この状態は、同時に真相を伝えることにも影響をもたらしました。その表れとして、資料を配る時に妨害があり、マンツーマンで真相を伝える時には、ひどくて心配して、恐れる心が現れ、衆生を救うことに悪影響をもたらしました。

 私は自分が、だんだん法から離れつつあるように感じました。他の弟子達が、私の事を見てとても心配し、より多く学法するようにと励ましてくれましたが、私は、少し焦ったものの、なかなか状況を改善する事ができませんでした。そこで私は、原因を内に向かって懸命に探すことで、様々な執着心を見つけることが出来ました。私は、その執着心を無くそうとしましたが、それでも状況は改善されませんでした。後に、私は他の弟子との切磋琢磨の中から、「それらのものを、乗り越え難いものだと見なすべきではなく、神の一面からそれに対応すべきだ」という事を悟りました。

 ある日、私は非常に強い正念のもとで、「自分は大法弟子であり、自分が良く学法することにより、あらゆるものは、それを妨害する事ができない」と思いました。そこで、様々な仕事を手放し、まず正念を発し、師父の加持を求めながら、あらゆる妨害を排除することにしました。いつもは座って学法をすると眠くなりますから、私は立って『転法輪』を読むことにしました。その間、確かに妨害が現れましたが、私は学法を続けました。

 続けているうちに、三講を読み終えました。一日を通してみて、私は自分が徐々に醒めたような感じがして、正念が益々強くなってきました。翌日、私は同修が書いた文章・「修煉の基点を正しく置き、真に修煉する」の中に「「それは自分の心の中で、まだ大法に神聖の位置を与えていないと気付いたとき、とても驚きました。これほど長く修煉してきたのに、未だに、この根本的な問題を解決しないままでした?! 」の一文を読んで、突然こう悟りました。「大法こそ、私たちの全てです。しかし私は大法の中の一粒子であり、大法に責任を持ち、衆生に責任を持つ護法の神であるに過ぎず、自分という存在はありません」。その時私は心の中で震えました。

 夜12時(北京時間)の発正念の時間に、急に多くの大法の法理が私の頭に湧き出し、私は、それが生命に対する巨大な衝撃を感じ、一種の言葉では表現できない慈悲と素晴らしさに、涙が泉のようにあふれて、心の中で、大法と師父の恩に感謝し、大法と師父に対する敬虔な心が現れました。それと同時に、同修の忠言の意味が分かるようになりました。つまり、学法の時には、「本をちゃんと置き、きちんと座り、手は綺麗に洗うこと」です。これは彼らの修煉によって到達したレベルを表すものです。すなわち、師と法を尊敬することです。

 修煉の過程の中の、ちょっとした感想ですが、足りないところは同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 2007年7月6日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/7/2/158037.html