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法を学ぶ時は、心をこめなければならない

(明慧日本)学法は私達すべての大法弟子の毎日の必修項目である。それではどうしたら本心からよく法を学ぶことができて、本当に法をマスターしたと言えるだろうか。毎日法を学び、法を暗記している同修もいるが、それを形式としている。その表れとしては、スピードを求め、思想が集中できていない。学法グループでの学法を勉強会と見なして、学法を実修と結ばない。

 例を一つ挙げると、ある学法グループは、同修の間の年齢が離れている。ある日ある年配の同修が法を読むのが遅かった。この時もう一人の同修は「あなたは読まないでください、私は読むのが早いから、かわりに読んであげる」と言った。そこで彼はとても速く法を読み終えた。その後年配の同修は「あんなに速く読むので、私の目は彼の読んだところについていけなかった」と言った。

 この小さい例から、実は一部の同修の学法の心理状態が映し出され、その環境の中で、心性を高める問題が現れた。私達はどこにおいても他人のために考えていたのだろうか? 私達は心をこめて法を学んでいたのだろか? それでは私達はどのように学法したら、心をこめたと言えるのか?

 『転法輪』の中に「釈迦牟尼は『正念』を重んじています。自分が修煉しているその法門の世界を本当に震動させるほど、一心不乱に読経して、はじめて覚者を招くことができます」という説法がある。

 私達は学法する時、一心不乱に読むことができるかどうか? すべての字を自分の目の前に現わすことができるかどうか? 本当に法の中のすべての字を目の前にはっきりと現わしたいならば、あなたは決して読むスピードが遅いと感じないだろう。だから私達のすべての同修は、皆、心をこめて学法をしなければならない。そうしてはじめて法をマスターすることができ、法を悟り、法に同化することができる。

 以上は個人の認識で、間違っている所は同修の慈悲のご叱正をお願いします。

 2007年7月11日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/7/4/158140.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/7/9/87511.html