神の念は法から生じる
文/河北省の大法弟子
(明慧日本)修煉の道を歩めば、すなわち半分は神になっている。しかし、なぜ長年修煉しても神のようになれないのだろうか。特に、邪悪による妨害が現れたとき、一部の同修はどうすることもできなくなった。実は根本的な原因は、法に基づいて正法および旧勢力との間の関係をしっかり認識できなかったことに問題があると思う。
たとえてみると、私たちは大通りを歩き、歩いているうちに石ころが転がっているのを見た。また歩いていくうちに、さらに大きな石ころを見た。石ころを見て怖がる人はいないと思う。一人の良い人間としては、他人のために路上にある石ころを全部拾うだろう。修煉者の道は、師父がすべて按配してくださったものであり、旧勢力が正法を妨害し、大法弟子を迫害するそれらの目的は、旧勢力の悪くなった本性から生じたものである。師父はそれらの按配を認めない。実は旧勢力およびコントロールされた邪悪は、まさに路上にある石ころである。それらが修煉の道において妨害の作用を果たすことができるのは、大法弟子の心がそれを許したからである。もし、人々が常に自分の法に合致しない人心を見つけ、師父のおっしゃったように行えば、邪悪はおのずと消えてなくなるであろう。
「心性をしっかりと制御さえできれば、一正が百邪を圧することができる」(『転法輪』)。「一正が百邪を圧することができる」の前に、「心性をしっかりと制御さえできれば」が入っている。となると、私たちは普段から、法を学んでいることや着実に修めていることと関連している。修煉者はすべての執着、欲望を取り除かなければならない。ならば、恐怖心は執着ではないだろうか。
恐怖心が来たとき、法理に基づいて行えば、それを突破することができる。三つのことをいつものようにやれば、すなわち神の念である。恐怖心がやってきたとき、何もしなくなって、しかも自分の恐怖心に言い訳を探そうとしているのは人心である。もし、すべての出来事に法をもって量ることができれば、あなたは神である。同じく、すべてのことを常人の理ではかれば、あなたはすなわち常人である。
大法の中で、常人の中の良い人にしかなりたくなければ、このような人に対して何も求めたりはしない。しかし、神になりたい心があるならば、常人の中で思うがままにしてよいものではない。魔難および試練の中で、さまざまな苦労を経て、執着等を取り除いてはじめて、その円満成就の基準に達することができる。仕事を修煉と見なしてはいけない。一人の修煉者として、常人の中でその人は良い人であり、さらに高い次元では、その人は神である。衆生が虚言に騙され、危険な境地に追い込まれたとき、彼らを救い済度するべきである。しかし、このことは威徳を樹立しているが、修煉の代わりにすることはできない。もし、転法輪の中で師父がおっしゃったように行わなければ、自分自身を騙すことになり、自分自身に対して責任を持たないことになる。これでは、同修に対して、または衆生や大法に対して責任を持つことができるとは到底言えない。
常に法をもって量り、法をしっかり学ぶ。師父は「法を勉強するには、心を放下し、落ち着かせ、考えが静かになってから本当に勉強するようにすべきです。幾つかの段落しか読めなくても、心が落ち着かないまま本一冊を読むより効果が良いのです。法を勉強する時には、必ず頭に入るようにすべきです。
」(「アジア太平洋地区学習者会議での説法」)とおっしゃった。心の中にある法だけが、すべての邪悪と執着を破り、そして修煉者は神になる。
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2007年7月15日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/7/6/158282.html)
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