慈悲をもって情を替える
文/河北大法弟子
(明慧日本)今日師父の『シンガポールでの法会における講法』を学びました。中の一段落には「わたしがいつも話をしているように、もし一人の人が如何なる自分の観念も持たずに他人と話し、相手の欠点を指摘したり、相手に何かを教えたりすることができれば、相手はきっと涙が出るほど感動します。あなたが如何なる自分の要素も入れず、何かを得ようともせず、さらに自分を守るつもりもなく、本当に自分の善意だけから相手のためを考えているのであれば、どんな人であっても、相手は本当にあなたの心が見えます。ところが、多くの場合われわれの多くの人が仕事をする時、そのようではなく、命令で強制します。これではいけません。それはわれわれの法の中のものではありません」と書いてありました。
この一段落を学んだことは、本当に私の心に触れました。この数年間の真相を伝えることや三退を勧める過程を振り返ると、全くそのとおりで、いかなる考えも持たずに人を救えば、相手は容易に三退を受け止めるようになります。時に心が穏やかでなく、自分の私的な心を守ると良い効果がありません。
自分の家族に対してもそうです。私の夫は大法の素晴らしさを信じていますが、時に常人の恐怖心に動かされ、法を正す事を阻むことがあります。私も毎回恨む心をもって意気地がないと彼に言います。そして彼に「わたしのことはほっといてよ、どうしようもないでしょう」と言った。いつも闘争の心が勝っていると感じています。あたかも彼に負けてはいけない様に感じて命令の形に頼り、強制的に大法を支持させて私が法を正す事を支持させようとしました。結果は言うまでもなく彼はいつも不服で、家庭のこの関をうまく越えられませんでした。
現在私は今までの自分に問題があることが分かりました。善の心をもって彼に対応していませんでした。一つの生命は大法に対する態度で自己の未来を決定する事を思い出し、私たちがこの世で夫婦であることは彼が大法に縁があることを物語っています。彼も大法のために来たのですから、私は神の念で彼の分かっている一面を覚醒させなければなりません。もしかしたら彼も未来の大法弟子であるかもしれません。あたかも彼に対応した天体の衆生が切に望んでいる眼差しが見えました。大法弟子は彼らの唯一の希望です。私は思わず心が切なくなり涙ぐみました。まだ自分になにか放下できないことがあるのか? 人を救うことより重要なことがあるのか? そう思いながら、夫に対して慈悲の心が生じ、この数日間に心性の関を越えることができ、夫への怨恨も解消しました。
夫が帰って来た後に私たちは一緒に食事をして、話をしているうちに大法の事を言い出しました。天が中共を滅ぼすことについては、一歩ごとに天象の変化がもたらされ、今こそ、大法弟子は法を実証し、衆生を救うのです。新唐人テレビの受信もその中の過程であり、大法弟子はやらなければなりません。形勢が変化してきましたが、これもすべて段取りされたものです。もし恐怖心でやらなければすべてが存在しません。社会も前へ進まなくなります。私は彼にこう言っています。私が現在やっていることはすべて法を正して衆生を救っているのです。あなたは支持できなくとも、干渉しないでください。それは自分の明るい未来を選んでいるのですというと、彼は「それはあなたがやりたい放題やるということですか?」と言った。私には物事の基準があり、大法の基準に基づき、師父の要求に基づいてやり、勝手にはやりません。話している間私の心はとても穏やかで、ずっと和やかな心境でした。こうして彼は黙認しました。
弟子の悟りを開いていただいて師父に感謝します。このように楽々と、彼は彼の天体に対応する衆生が救われる道を選びました。こうして私はずっと越えられなかった家庭の関を越えることができました。
私は同修の悟りを開かせるかもしれないと思ってこれを書きました。妥当でないところは同修の慈悲なる指摘をお願いします。
2007年7月24日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/7/1/157973.html)
(英語: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/7/6/87404.html)
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