真相を伝える出発点を正しく置く 文/大陸大法弟子
(明慧日本)真相を伝え始めた頃、私はそれが師父の教えであり、私達がやらなければならない三つの事の一つだと考え、大法弟子として必ずやらなければならないと事だと思いました。よくできたり、多くやれたりしたら喜びましたが、少ししかやれず、よくできなかった場合は喜びませんでした。自分は真相を伝えることを重要視していると思っていましたが、実は常人の情の中にいて、人心をもって、この事を評価していました。私はいつも、真相を伝えに行かなければならないと思っていました。今日私はどのくらい伝えたのか? 同修は真相を伝える中で遭遇した問題について、注意しなければならないと言いました。真相を伝える中で自分がひたすら話しすぎて、あまり相手の立場に立って考えていませんでした。また表面の結果にも動じやすいのです。常人はあまりにも迷っているので、真相を伝えにくいし、どのようにやってみても大法の修煉者に対する要求に達することができないようです。
絶えず真相を伝え、絶えず学法し、私は自分のこれらの考え方がある1つの中心をめぐっていることに気づきました。それは「私」であるほかなりません。真相を伝える出発点が「私」であり、相手と衆生ではない。このことは私が真相を伝える上で効果が思い通りにいかない原因になったのだと思います。
ある日、『九評』を配る時、私の心に一念が生じました。「まだ真相が分からない縁のある人々よ、早く真相を探しにきてください。皆さんが皆助かることを望んでいる。」私はこの資料を最もきれいで最も人目を引く良い場所に置いて、 縁のある人に取りにきてもらう。私は歩きながら、周りを観察して、素早く良い場所を見つけました。私は妨げられないように師父が助けてくださることを願っていました。近くに行くと、やはり私が望んでいたような場所で、私は余裕をもって落ち着いてきちんと本を置いて離れました。長い間、真相資料のない地方に資料があるようになり、そこの縁のある人はきっと取りにくるだろう。あの時、私は自分が本当に大法の慈悲の中に溶け込んでいたと感じました。考えたのはすべて相手、衆生であり、自分ではありませんでした。私は体得しました。大法弟子は大法に同化してこそ、はじめて神のような慈悲と純粋さが現れ、はじめて衆生を救う知恵と能力があるようになる。本当に衆生を救うのは師父と大法のこの上ない法力なのです。
私は真相を伝える意義をはっきり認識しました。それは法を正す時期、この宇宙の歴史の肝心な時に、世間の人が助かる唯一の機会です。真相資料はただ1冊の本、1枚のディスク、1部の小冊子だけではなく、それは世間の人が未来に向かう道であり、世間の人が必ず直面しなければならない選択です。私は法を正す時期の大法弟子の責任、大法弟子の真相を伝える本当の意義を理解し始めました。自分の修煉の1部分だけではなく、更に衆生が救われるため、大法を実証するためです。
真相を伝える時、私が考慮するのは真相資料をどんな場所に置いたら妥当であるかだけではなく、どのような人に対してどのような内容、どのような形式の資料を作ったらいいのかを考慮します。どんな時間帯に配ったほうがより良いのか、1部の資料が真に衆生を救う事にどのような作用を果たせるのか、例えば知識人はわりと孤高で、形式を重視します。小冊子を印刷すると、重要視されないかもしれません。私は同修と協力して正規版の『九評』を作成し、DVDと小冊子を結び付けて、クリアケースの中に入れて配りました。世間の人を救うのは私達の真相を伝える出発点であり、私達の真相を伝える目的でもあります。真相を伝える中で私達が行ったすべての事、すべての過程は、皆この目的を達成しなければならない。私達は神の慈悲をもって、人を救っている。この関係を正しく置けば、初めて人心に動かされることはなくなり、救いたい人を救うことができます。
2007年7月29日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/7/29/159755.html)
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