日本明慧
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邪悪は一体何を恐れているのか


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)修煉者として、我々は病業の関門を乗り越える時、或いは、病気の状態が現れた時、割と正しい認識を持っています。「病気」の状態が体に現れた場合、自分のことを修煉者として見做しさえすれば、その状態はすぐ乗り越えられるのです。そして、病気を恐れてもいけません。恐れることは即ち求めるということです。それでは、病気を恐れないというと、衛生の配慮をしなくてもよいのでしょうか。自分の体を大事にしなくてもよいのでしょうか。勿論そうではありません。それと同じように、邪悪に迫害される時、迫害を恐れてはいけません。恐れることは求めることです。だからといって、安全の配慮をしなくてもよいということではありません。

 では、邪悪は一体何を恐れているのでしょうか。

 多くの学習者の文章にこういうことが書いてありますが、私たちの正念が強い時、師父は私たちの体に危篤状態を演化してくださる。すると、悪徳な警察は責任の追求を恐れて、迫害をやめざるを得なくなります。学習者の正念正行に感動すると同時に、迫害の経験の無い学習者や迫害の経験があっても、この迫害をまだ冷静に認識していない学習者のことを心配せずにはいられなくなります。つまり、こういう現象から、私たちは内に向けて探すのではなく、外に向けて求めており、「悪徳な警察は責任の追求を恐れている。私たちが命をかけて戦うのを恐れている」というような観念を形成してしまったら、とても危ないと思います。

 自分の経験と認識から言いますと、旧勢力やそれに制御されている邪党とその手下は悪行を働いている時に、自律性が無く、最低限度のものすら無いのです。その類の人の中には、まだ人間性のある人がいるものの、迫害を止める見込みをそれらの責任感や自律心や恐怖心に預けてはいけません。

 数え切れない血の教訓、そして師父の法を何度も学んでから、分かったのですが、それらが一番恐れているのは、私たちの師父と大法を固く信じ、生死を恐れないこと(私たちは正念を持つ時、そんな状態にある)、何の執着も漏れも無いことです。その時、そいつらはたとえ迫害をしようとしても、その度胸が無く、たとえその度胸があっても、その能力が無いのです。つまりその時、私たちは偉大な神で、強大な正念の場に包まれるばかりか、私たちのことを、何よりも大事にして下さる師父も見守ってくださっているのです。

 だから、くれぐれも覚えていただきたいのですが、迫害を止めるのは師父と大法を固く信じる私たちで、決して、邪悪が責任の追及を恐れるなどの理由ではありません。それはただ常人の次元の表れに過ぎないのです。

 2007年8月11日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/8/7/160246.html