日本明慧
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内に向かって探し、己を修める

二〇〇七年ワシントンDC法会での修煉体験談

(明慧日本)私は賈某某と申します。新唐人テレビが設立された当初、私は幸運にも番組の制作に参加しました。

 テレビ局での仕事が繁忙になるにつれ、特にテレビ局での仕事は皆常人の形式のもので、だんだん修煉ときり離されるようになってきました。学法は学法であり、仕事は仕事であり、しかも仕事をより重要視するようになり、仕事の中で自分をしっかりと修めることをすっかりと忘れてしまいました。仕事の中で自我も急速に膨らんできて、聞きたくない話を聞き入れることができなくなりました。最も恐ろしいのはなんと自分ではまったく意識せず、仕事の表面上の虚像に完全に陥っていました。数人の学習者との間に長年にわたって解決できない矛盾があるため、去年私は自分の所属している部門から離れたいと申請をしました。ひいてはニューヨークから離れようと考えていました。当時、自分の執着に直面する勇気がなく、ひたすら矛盾から逃れようとしていました。慈悲なる尊師が機会を提供されて、結局、私はニューヨークから離れませんでした。冷静に考えて、自分の頭をきちんと整理し、また学法を強化し、私は問題の所在をよりはっきりと認識するようになりました。私は修煉者ですが、現在修煉者の最も基本的な要求——内に向かって探すことさえやり遂げられていませんでした。私は一からやり直し、自分のひとつの念、ひとつの思惟をも逃してはいけないのです。

 元の部門を離れた後、私は別の番組の製作チームに呼ばれて生中継の番組制作に参加しました。私は一部の操作に経験があるため、私と一緒に仕事をしているもう一人の学習者の欠点を見たら、いつも有益なアドバイスをしてあげましたが、彼は聞かないだけでなく、逆に軽蔑の態度(あなたは何も分からないじゃないの?)で私に接しました。一回、二回、三回、私はだんだん怒るようになりました。特に私のアドバイスに対する軽蔑の態度に私はどうしても耐えられませんでした。ところが、協調者が私と同じ意見を述べたときに彼は異議なく「はい、はい」と答えるのです。だんだん私はこの学習者に会いたくなくなってきました。私は再び修煉状態に戻った後、しかも心を静め内に向かって探すとき、自分の自尊心(私の言っていることが正しければ私の意見に従うべきだ)が邪魔していることに気づき、同時に自我を証明する強い心(私の意見を聞かないと、気がすまない)が伴っていました。

 その時、一人の同修が「あなたの話す語気はちょっと強硬ですね、自分が技術を持っているから、他人のことを馬鹿にしているところがあるのではないか?」と注意をしてくれました。私が内に向かって探したら、果たしてこの心を見つけました。この心がたまには表れても、われわれの持っている技能や技術は皆師父が与えてくださったものだと考えると、いたたまれなくなりました。自分がこれほどの汚い心を持っていることを恥ずかしく思いました。その後、私は自分の話す語気に気を配るようになり、特にほかの学習者に質問するときにいつも根気強く自分に注意を与えています。内に向かって探し、自分の自尊心、顕示心を見つけて、しかもこれらのよくない心を取り除こうとするとき、相手の学習者を再び見ると、その学習者にはたくさん学ぶところがあり、私の心理状態が変わったらその学習者との関係がよくなりました。

 しばらくして、われわれが生中継の準備をしていたとき、私は彼に正しいアドバイスをしましたが、彼は聞きませんでした。私は自分の意見を繰り返しましたが、彼はまだ自分の意見を堅持しました。このとき、協調者が私の意見を繰り返して言うと、彼はすぐにOKしました。実はこの学習者は何も意識していないかもしれません。なぜ私の意見を聞かないのか? と私の気持ちが一瞬感じましたがすぐに分かりました。私に自尊心がまだあることが分かったのです。この心は完全に取り除かれていませんが、この心が表れたときに少なくとも私がこの瞬間この心に気づくことができるようになりました。

 ある日、協調者からの電話があって、ある学習者が途中まで作った番組を完成するようにと言ってきましたが、異なるコンピュータシステムを使っているからという理由で私はその願いを断わりました。協調者は私が助けたくないのだと言いました。私は説明しようとしましたが、協調者が忙しいと言って電話を切ってしまいました。本当に客観的な原因があるから私がやれないのに、どうして私のせいにするの? とそのとき、私の心が動じました。電話を切ってから私は念入りに自分のうちに向かって探しました。心の底に「幸いにもシステムが異なっている、さもなければ、私にやらせると、たくさんの画像を処理するのにものすごく時間がかかる」という心がありました。この心を見つけたあと、私は積極的にその学習者に連絡して彼女が処理できない画像を処理してあげました。この過程を振り返ってみると、協調者の私に対する指摘は理にかなっていました。たくさんのことは表面上だけから正確か否かを見るわけにはいかず、内に向かって探せば自分の取り除くべき心が必ずそこにあります。

 私に一つの体得があり、それは旧勢力の設けた罠にはまらずに正念を以って人と事を見るべきだということです。現在同修との間に生じた摩擦、また周りの同修間に生じた摩擦及びたくさんの進展のない大法の項目を振り返ってみれば、皆ほとんど自分のうちに向かって探さず、ネガティブな心理状態で相手や事を見るため、旧勢力に利用された結果になるのです。あることをやろうとするとき、いつも「このことはこのようにすると絶対だめだ、或いはこの協調者がどうしてこのようにするのか? これはよくやれるのか?」などの言論がでてきます。私たち修煉者はエネルギーがあり、このネガティブなエネルギーが法を正す項目に加わると、旧勢力の阻害作用を果たしていることになるのではないでしょうか? 善をもって自分の意見や見解を提出するのは問題がないのですが、それはネガティブではなくポジティブです。二種類の意見をより味わってみたら、絶対違います。師父は良く協調し、圓容するように私たちに要求していると分かっていますが、「正しい念正しい行い」正しい念が先にあってこそ、その後の正しい行いがやり遂げられます。同修に対して、もし同修の欠点ばかりを見ると、このネガティブなエネルギーが同修に対して抑制や抵抗の作用を果たすのではないでしょうか? 

 どの同修にも光り輝いている一面があり、私たちは他人の欠点ばかりを見るのでなく、自分の不足をより多く見るべきです。師父が『転法輪』に「もしみんなが内心に向かって修煉すれば、まったく違う状況が生じてきて、あなたがいちいち義憤を感じたりしなくてもよいようになるのです」とおっしゃいましたが、もし私たちが内心に向かって探す環境を形成できるならば、破壊するものも存在しなくなるではないでしょうか?

 旧勢力のやり口を見破り、虚像を見抜いてから、私は前の部門の同修間の間隔を存続させるわけにはいきませんでした。新年の際に、私はネット上で積極的にかつて私と間隔があった同修に「新年、あけましておめでとうございます」と挨拶をした。また、今年の春に私のこの一年の体得をその同修に打ちあけ、積極的に私たちの間の間隔を破りました。私はもう矛盾を恐れません。なぜならば、如何にして表面の虚像を見破れるかがはっきりと分かっているからです。それはほかでもなく内心に向かって探すことです。

 テレビ局で仕事をしていると、皆は番組の制作を急いでいますが、一部の学習者は煉功と学法を遅らせているため、時々いらいらしてしまい、周りの同修と摩擦が生じます。このとき、本当に互いに寛容しあうことが必要です。異なる心理状態が往々にして異なる結果をきたすことになるのです。

 ある日、私が番組を完成した後、ニュース部門の一人の学習者が制御室の設備の設定を変えたか? と私に聞きました。コンピュータの設定だと思っていたため、私はコンピュータの設定を変えるわけがないと言いました。協調者が見に行ったほうがいいですよと言うので、私はその学習者について制御室に行って見たら、彼が言っているのはコンピュータではなく、もう一つの設備のことを指していました。その設備を使用した際に私は設定を私たちが必要とするところに調節しましたが、使い終えたらニュース部門が必要とするところに調節し直す方法が分からなかったため、そのまま放っておきました。

 その同修は私がこの設備の設定を変えたと聞いて、かんかんになって怒りました。私はびっくりしました。どうして私にこれほど怒ったかを理解できず、私のせいではないのに、しかし自分の面子を考慮して協調者の前で彼に言い返しました。考え直すと、もし私が他人のことをより多く考えるなら、技術部に如何に元の位置に調節し戻すかを聞けば、他人の手間を省けたのではないだろうか? なんと言ってもニュース部門がより多くこの設備を利用しているからです。しばらくすると、先ほど怒った学習者が一枚の紙を持ってきて私に謝りながら「これはニュース部門の設定ですが、次回は使い終わったらお手数ですが、この設定に調節して戻してください」と言いました。翌日彼は再び私に謝りましたが、私は彼に「大丈夫ですよ」と言いながら、「頭がはっきりするとき、他人に徳は与えないだろう」と思いました。

 同修間の間隔を解消した後、私は元の部門の番組の制作に参与しました。ある日、私は当該部門の一人の学習者にディスプレイを借りようと思いましたが、彼は私の話を聞いて 「このディスプレイは私が随時使うから、すぐに戻すなら、貸してあげるが、さもなければ、あなたは使ってはいけない」と強硬な態度で言いました。彼が言っていることは間違いないのですが、彼の態度が私を驚かせました。どうして私に対してこのような態度をとるのか? 私の心がまた動じるようになりました。『転法輪』の第四講「業力の転化」に「みんなが和気藹々で、そこに坐っているだけで、功が伸びるなどということがありえますか?」を思い出すと、私が心性を高めなければならないところがたくさんあり、同修が私の高まりを助けてくれることはよいことであり、同修に感謝すべきなのです。またほかの方面から言うと、旧勢力はわれわれが完全に取り除いていない心を利用して矛盾や間隔を作っているではないだろうか? 私はどうして旧勢力に利用され、旧勢力の設けた罠に陥るのだろうか? これを思うと、心が軽快になり、翌日に私はその同修に積極的に挨拶をし、現在二人の間には何も発生していなかったかのようになっています。

 自分の修煉の道を振り返ってみると、番組をよく制作した際は皆自分の心理状態が比較的純粋で自我がなく、大法の立場に立ってやっているときであり、大法の仕事が順調でないときはいつも自分の心理状態が正しくないときであり、表面上には法に対して責任を持っていますが、裏に自分を証明する心が必ずあります。ただ自分が意識せず、或いは意識したくないだけです。この前に一つの番組を作った際に、唐玄宗の写真が必要となり、同修が一枚の写真を見つけてくれました。皆がこの写真は唐太宗に似ていると言いましたが、その同修は「唐玄宗が一体どのような顔をしているかがわかる人はいないのではないか」とつぶやきました。そのつぶやきから、私は「歴史上一人の有名な皇帝でも、後世の人々は彼の顔さえ分からず、私がこんな些細なことをしてどうして自分にこれほど執着するのだろうか?」と考えました。

 この万劫に遇えない貴重な機会を与えられたとき、残りの時間がますます少なくなってきた法を正す最後の段階において、互いに励ましあい、共に精進し、純粋な心理状態で師父の要求されたことをし、師父のご期待に応えられるように頑張りましょう。

 偉大な尊師に感謝いたします。

 同修の助けに感謝いたします。

 2007年8月19日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/7/24/159494.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/7/30/88156.html