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「正念は神威を顕す」を体験する


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)労働教養所で不法に拘束されたとき、ある学習者が口伝えで師父の正念を発する法を教えてくれました。しかし、その時、私は正念の作用、運用様式、やり方についての認識がまだぼんやりしていました。それにもかかわらず、正念を発する時のエネルギー場の存在をはっきりと感じました。

 ある時、正念を発して、悪徳の警官を止めたという夢を見ました。それは自分の正念に威力があると信じさせるように師父からの悟りだと認識しました。ところが、迫害に遭うと、やはり時々正念を発するのを忘れたり、具体的な状況でどう使えばいいか、特に、心理状態が基準に達していないときどうすればいいか迷ってしまったりしていました。師父はこのように説かれました、「しかし、その前提は、皆さんの正念が強く、恐れる心がなく、常人の執着、心配と恨みの心がないことであり、その状態ではとても効果的です。正念が出れば、直ちに効果が見られます」(『正念をもって悪事を制止する』)。

 「次元は心性によって決められているのだが、つまり、功能を使用する時には正念が強くなければならないのだ。邪悪に対し恐怖を感じたり、功能を使用する時に心落ち着かず、本当に効果があるのかと疑ったりするなど不純な心理を持っていれば、功能の効果に影響したり、その効果を妨害してしまうのである」(『功能とは何か』)。心が落ち着き、正念が強いと思う場合には、邪悪の迫害に直面することもないし、常人に対して功能を試すこともできないため、ずっと自分の正念が本当に邪悪の悪行を止められるかどうかについて心細かったのです。

 ある夜、真相資料を配っていた時、突然ついた車のライトに照らされました。すぐそれは待機中のパトカーではないかと思い、正念正行の神の状態が影も形もなくなり、危ない、捕まえられたら大変だと思って、一目散に逃げました。

 家に着いてから、それは正念を用いる絶好のチャンスではないか、なぜその時にただ逃げることばかり考えたのかと気がつきました。後で思い出しましたが、その建物の前にいつもタクシーや個人の車が止まっていて、もしかするとその時にちょうど誰かが車で出かけようとしたのかもしれません。確かに、正念があるかないかによってその結果もぜんぜん違います。しかし、後で法の学習を通して、いろいろ考えさせられ、今度の経験から十分に教訓を汲みとり、それからの成熟と修煉にとても助けになりました。

 ある夜、郊外の住宅団地で真相ビラを貼っていたとき、一人の中年の男性がずっと私と一定の距離を置いて、身を隠しながら尾行していることに気付きました。しかし、私は全然恐れる感じがなく、慌てず最後のビラを貼ると、落ち着いて、「止まれ」という一念を発して、自転車に乗り、そこを離れました。大通りに着くと、また「解除する」という思いをめぐらしました。

 ある夜中、真相資料を配り終わった時、急に雷が落ち、大雨が降り出しそうでした。配ったばかりのVCDはもし雨に降られたら、大変です。今のすべては師父が法を正すこと、大法弟子が衆生を救い済度することをめぐって動いていると思うと、「少なくとも今夜雨が降ってはいけない」という正念を発しました。そうすると、一分後、雷が落ちなくなり、夜明けまでずっと雨が降りませんでした。

 今年の後半のある日、ある大手の国営企業で企業設立50周年の催しが行われました。その中に国旗を揚げるとか、国歌を合唱するとかいう内容がありました。すると、そこの大法弟子は全体で正念を発しました。そうしてのちに、国旗を揚げようとしたとき、音楽が流せなくなり、仕方なくやめてしまい、また、国歌を合唱しようとして全員起立すると、伴奏のレコードが見つからなくなり、それも取り消すより他に方法はありませんでした。この催しの責任者である書記や党弁主任は、かんかんに怒りましたが、それは神の御意思ということがまだ分からないのでしょう。

 大法は宇宙全体の法です。正念の威力は大法に同化し、師父と大法を信じる度合いと次元の現われだと思います。師父は『警告の言葉』の中でこうおっしゃいました。「もし、みな一人一人が内心から法を認識することができれば、それこそが威力無辺の法の体現——強大なる佛法のこの世での再現なのである」。

 個人の悟りですが、不当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 2007年8月24日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/8/21/161257.html