日本明慧
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自我を放下し、さらによく法を実証する


 文/イギリスの大法弟子

(明慧日本)尊敬する師父、学習者の皆さん、今日は!

 2008年のロンドン神韻芸術団の公演についての交流で、学習者間の不和にどう対処したらよいかという話合いがありました。ある学習者が「実はどのようにすべきか、師父が他の空間ですでに按排されているのです。私たちが自我を放下しさえすれば、師父の按排通りに従うことができ、最高の結果になると思います。自我に執着すれば、迷ってしまいます。執着すればするほど、按排を見失い、うまくできなくなってしまいます」と語り、それが何時間にもわたった交流の最後に出た意見でした。この話は学習者間の対立の主な原因を見事に指摘するものだと強く感じ、今後の問題の処理に役立つと思いました。

 しかし、数週間後、この理念が全く理解されていないかのような事態となりました。ロンドン神韻芸術団の公演準備についての交流で、ある学習者に私は不満を持ち、怒りさえ感じました。口先ではうまいことを言っているものの、実際の行動は全く別ではないかと思ったのです。ところが、後で落ち着いて考えてみると、私が気に入らなかったのは、彼の意見そのものではなくて、私の意見や考え方が違う点だと分かりました。本当に自我を放下すると、相手の意見の価値がはっきり分かるようになり、たとえ正しくないと感じても、相手への思いやり、慈悲による安らかな気持ち、魔難の中で修煉しながら三つのことをよく行おうとする学習者を、尊敬をもって理解できるようになりました。

 次の神韻芸術団の公演についての交流会で、何人かの学習者がそれぞれ自分の意見を言い出しました。それを聞いたある学習者は「あの学習者の意見は正しくないのに、なぜ反論しないのですか」と私に聞きました。私はこう答えました。「今日のエネルギー場は非常にいいから、この場で誰が正しいか誰が間違っているかを指摘したり、或いは自分の意見を説明したりするのではなくて、他の学習者が一体どのように考えているのかを聞きたいのです。そうすることで、その意見の価値ある部分が分かってきます」。

 自我の放下については、何年か前にもう体得したと思っていました。しかし、本当に困難にぶつかった時、この法理が分からないかのように対処していました。困難をようやく乗り越えて、振り返ってみると、新しく悟った法理は実は何年か前に悟った自我を放下する法理であったことに気づきました。私たちの修煉は一層ごとに修めるもので、よく修めた部分はすぐ隔離され、残りの部分を再び修めなければならないため、このようなことになるのでしょう。(もちろん、単純な繰り返しではなく、繰り返しの中で昇華しているのです)。

 他国の学習者が次のような経験を聞かせてくれました。彼らはあるプロジェクトについて、最初はそれぞれ自分の意見を出しましたが、うまく対処できず、摩擦がますますひどくなり、皆、自分の意見を出さなくなってしまい、結局そのプロジェクトはそれ以上進まなくなったそうです。異なる意見が出ることは悪いことではありません。意思疎通の始まりであり、全体を形成する機会でもあります。その中で自我を放下することが大切なのです。

 いつも自分に言い聞かせていますが、一つ一つのプロジェクトは私や協調者だけに限られたプロジェクトではありません。参与するすべての学習者が人を救い済度し、円満成就するために、お互い関わりながら自分の道を歩んでいく過程なのです。協調者の主な役割の一つは学習者一人一人がしっかりと自分の道を歩めるように、師父の按排された道を歩めるように協調することだと思います。

 師父は何度も、私たちのやることは、表面上は常人のものと同じように見えるが、実質は全く違うという法を説いておられます。この説法を深く会得し、理解し、感じたのは今月の初めに参加したアテナでの活動の時でした。催しが開催される何分か前に講演用の原稿を3部コピーするよう学習者に言われたので、急いで近くのホテルに入りました、カウンターに立っているマネージャーらしき人が無表情に何枚かと聞き、原稿を持って事務室に入りました。ずいぶん待たされてもまだ出てこないので、今妨害も多いし、1部しかない原稿を無くしたら大変だと思い、正念を発しました。暫く経って、そのマネージャーが出てきました。彼が手にしているコピーを見てほっとして、お金の支払いをしてから早く戻ろうと思いました。しかし、思いがけないことに、彼はそのコピーをカウンターで丁寧に1枚ずつ、3部に仕分けしたのです。それから、1部ずつ机の上で端をそろえてから、引き出しからクリップを取り出して、きちんと止め、ゆっくりと「こちらがコピー3部です」と私に言いました。私がいらいらしながら値段を聞くと、彼は手を胸に当てて、少し頭を下げて言いました。「お金は要りません。あなたたちの行動に敬意を表します」。

 原稿のコピーをしっかりと手に持ちながらホテルを出るとき、私は朗々とした神聖な気持ちで胸がいっぱいでした。師父が私たちのやることは根本的に常人のものとは違うといわれた説法が心に浮かび、その教えをより深く感じました。コピーを手にする私がホテルの階段を降り、通りを横切り、急いで学習者に渡す姿を、宇宙の無数の神々が見つめていると感じました。その朗々とした神聖な気持ちはとても高尚で、それに比べたら、学習者間の対立や恨みは小さくて取るに足らないものです。学習者を隔てる壁も、簡単に溶けてしまうようでした。私達のコピーは常人のコピーとは何の違いもないように見えます。しかし、私たちのやったことは、どんなに小さなことでも、とても神聖で、天上の衆神がやろうとしてもやれないことで、私たちだけにしかできす、私たちが行う義務のあることなのです。

 (2007年イギリス法会発言原稿)

 2007年9月4日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/8/31/161876.html