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「迫害の中での向上は要らない」について考える


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)明慧ネット2007年8月16日の文章「師父の按排下で修煉し、迫害の中での向上は要らない」を読んで、私も同感でした。自分の体験を通して、どのように「迫害の中での向上は要らない」を実践しかについて述べさせていただきます。

 迫害が起きてから、私は割りと穏やかに歩んできました。普段、安全面のことによく注意するし、迫害の迫害を排斥していますから、大法を実証することをずっとやっていますが、1回も不法に捕えられたことはありませんでした。しかし、昨年のある日、真相を伝えているときに、相手に密告されたため、不法に捕えられ、家宅捜索もされて、大法の書籍や師父の法像を奪われました。

 彼らから聞いた最初の質問は「あなたは法輪功を修煉していますか?」ということでした。彼らの話から、真相を十分知っていながら、やはり迫害しているということが分かりました。だから、この問題をきっかけに彼らに真相を伝えるつもりはありませんでした。それに、邪悪の仕出かした迫害の環境も真相を伝える場所ではない、他の場合だったら、もし真相を聞きたい意図でこう聞けば、喜んで答えると思いました。

 しかし、この邪悪な場所で私を迫害するための「証拠」を作る意味での尋問に対して、私は勿論断固として答えを拒否したのです。

 彼らはさまざまな手を使いました。更に、私をいきり立たせようとして、「お前は煉功者らしくない、他の者だったら、堂々と認めるのに、お前はこの基本的な質問にも答える勇気がない」と言いました。610弁公室の主任も「お前は法輪功学習者らしくないな」と言いました。私のことを法輪功学習者と知っているものの、迫害の証拠を作るために、わざとこのように聞くとは、なんと邪悪なことでしょう。しかし、この技は私には効き目がありませんでした。

 私は法を正す時期の大法弟子です。私はこの称号をずっと誇りに思っています。それは私の命のすべてであり、迫害があろうと無かろうと、心は動かず、別に認める勇気が無いということではありません。私は大法弟子として、十何年来、どんなにつらい修煉過程を歩んできたか、法を実証する過程で何をしたか、師父と大法は私の心の中でどんなに重要な所に位置づけられているか、それは天地、宇宙の衆生が証を立ててくれ、別に誰彼に簡単に否定されるものではありません。私の心の中の事を師父は私よりもよく分かっておられ、別に衆生を救い済度するという大事なときに、この初歩的問題で私を試練するわけにはいきません。

 これは師父の按排ではありません。だから、協力してはいけません。その「基本問題」に協力してしまえば、それは邪悪の仕掛けた罠に引っ掛かる第一歩になります。それは自分が彼らの仕出かした邪悪な迫害環境での「向上」、邪悪の「試練」を喜んで認めることになり、それに、一旦それらの按排下の試練であればら、それらの基準に達しなければ、簡単に手を引かないのです。

 だから、610弁公室の主任が「お前は法輪功学習者らしくないな」と言った時、「そうだったら、何でまた捕えに来たのですか? 釈放しなさい」と聞き返しました。それを聞いて、彼らは驚いてしまい、私に答えを要求しなくなり、仕様がなく自分で「無言」と記録しました。

 私はまたこう考えましたが、敢然と旧勢力の仕出かした「修煉」の環境を根本的に否定し、それらの按排した環境で「修煉」、「向上」を拒否して初めて、私への迫害に参与した人の罪を軽くすることができるのです。これこそ本当に彼らのために考えるのです。彼らは私たちのことも考えなさいとか言って、八方手を尽くして、私に協力させようとしましたが、私が考えたのは、どのように、旧勢力が私を試練することを口実に、彼らを壊滅することを否定し、彼らの犯罪行為を制止し、それによってできるだけ彼らを救い済度しようとすることです。これこそが本当に彼らのことを考えているのです。

 尋問するとき「無言」で、彼らは更なる一歩の迫害の口実を失ってしまいます。私が迫害されなければ、彼らの罪も軽くなります。別に「私は怖くない」、「私は円満成就しなければ」ということを証明するため、旧勢力や邪悪に私は大法弟子としては合格だということを証明するため、彼らの生死を顧みなくてはなりません。

 それに、旧勢力の認めた試練に耐えての合格は、大法によって認められるわけではないのです。

 私は絶食や逃走の事も考えたことはありません。つまり、絶食や逃走とは、まず自分のことを犯人と見なし、彼らの逮捕の行為を認めた上で、これらの対策を採り、迫害を否定しようとすることになります。それはやはり受動的に迫害を認め、迫害を認める部分があると思います。これと同じように、それも正念ではないと思っているため、「病業」の形を考えたこともありません。

 まして、絶食、逃走、「病業」という形でたとえ暫く魔窟を出たとしても、それは徹底的に邪悪の按排を否定していないので、いつかまた同じことを繰り返してしまいがちです。だから、それは私たちの反迫害の見本にはなりません。このような受動的で、自分の損害を代価に反迫害という事例を未来に残してはなりません。旧勢力の按排した聖徒が迫害を蒙るという歴史を大法の中できりもなく再演させてはなりません。

 その過程で私は過激な言行もなければ、極端な表現もありません。迫害への排斥を証明するため、わざと、過激な表現をとる必要はありません。その過激な表現は迫害への否定を証明するどころか、それはかえって迫害へのある意味の認可になり、衆生を救い済度するにはぜんぜん得にはなりません。だから、彼らの人間の一面にずっと礼儀正しく対処しています。と同時に、その背後の邪悪な生命と要素を取り除いています。

 その結果、彼らは24時間の尋問中、無理な要求を何一つ出さず、無条件に釈放してくれました。それからもう1年余り経ちましたが、それ以降彼らはずっと邪魔をしていません。

 何回かこの体験を書きたいと思っていましたが、やはり止めていました。法を正す時期の大法弟子として、邪悪に捕まり、迫害されること自体が恥なのです。それは師父の希望ではありません。たとえ後で正念が出たとしても、やはり一つの教訓になってしまいました。常人社会のことは利益と弊害が共に存在するもので、迫害も同じなのですが、一方では、それを利用して真相を伝え、人を救えます。しかし、もう一方では、もともと救える人が恐れるため、真相を聞かなくなる可能性もあります。

 穏やかに法を実証する道を歩み、ぜんぜん迫害されないことこそ、師父の按排だと思います。しかし、私はよく歩むことができず、師父のご期待に添えませんでした。それを思うたびに、後ろめたくてなりません。迫害のせいで、たくさんの人が業を作り、罪を犯しました。迫害の中でいくら正念が強いとしても、いくらよくやったとしても、損失はとても大きく、中には挽回のできないものもあります。よく歩めなかった道は肯定もできず、未来にも残せないのです。それがずっと文章を書かなかったことの理由なのです。

 私たちは大法を実証するために来たのであって、邪悪の迫害を実証するためではありません。大法も邪悪の迫害の中でいかによくやるかについての要求もありません。私たちが未来に残す道はもっとも正しい法を正す道であるべきです。邪悪の迫害を正念で乗り越えてきて、そして、向上したから、邪悪の按排も一理があると思われがちですが、実はそうではありません。正念で乗り越えてきたのは、大法の要求に達したと同時に、師父が守ってくださった必然的な結果なのです。私たちの次元は迫害を通して検証する必要もないし、迫害も向上の不可欠な過程ではありません。師父の要求された通りに修め、大法の中で高め、邪悪の仕出かした「修煉」環境を根本的に否定し、衆生のために、できるだけ迫害されず、最後まで穏やかに歩むことこそ、私たちの歩むべき法を正す道なのです。

 もともとこの文章を書きたくなかったのですが、学習者の迫害を否定するについての文章を読んで、皆さんは自分の体験から教訓を汲みとれるのではないかと思い、この文章を書いたわけです。

 2007年9月5日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/2/161837.html