人に「二心」あれば、災いが生ずる
文/大陸大法弟子
(明慧日本)『西遊記』の中にこんな物語があります。唐僧が孫悟空を追い払ったあと、六耳赤毛猿が現れ、災いを起こし、4人の修煉者に魔難を経験させました。
仏法を修めるには一心不乱に、条件や理由なく、損得を構うことなく修めるべきです。これこそ正信なのです。
大法弟子は一つの全体として修煉して以来、自分自身の「二心」のために生じた魔難もまた少なくありません。旧勢力の行った全ては認められないものの、もし私たちに「二心」がなければ、たくさんの魔難を避けることができるかもしれません。
特に7・20以降、邪悪が師父に対し、汚したり、罵り散らしたり、泥を塗ったりしてきた時の、私たちの反応はどうだったでしょうか。疑ったり、迷ったりして、「二心」が動いたか、或いは師父の潔白を堅く信じて、動揺しなかったかです。邪悪が大法を中傷し、デマを飛ばしたとき、「二心」を動かした人は少なくなかったのではないでしょうか。
師父に対し「二心」が生じれば、自分の観念に執着し、師父の要求された本線から逸脱し、更に仮の経文を見させて、邪な悟りに導かれてしまいます。学習者に「二心」が生じると、内に向けて探すのではなく、お互いを責めたり、疑ったりして、うまく協調できず、全体として漏れが出てしまい、安全面の問題も避けられないことになります。
一心不乱こそ修煉の正念なのです。正にある学習者が言ったように「自分が大法から正悟した異なる次元の法理を絶えず、繰り返し自分の修煉過程に応用し、困難がどんなに大きくても、何度失敗しても、金剛不動な正念で自分の心性が異なる次元の基準に達したかどうかを精錬し、検証するのであって、別に出会ったこと、越える関門、取り除く心で悟った法理が通るかどうか、効き目があるかどうかを判断するのではありません」(効き目があるかどうかというのは他ならぬ「二心」の現れであって、それは大法を疑うことであり、大法に対して不敬です)。
「二心」を持つということは、だいたいにおいて道徳のある人に軽蔑されており、修煉者にとっても、それは恥なのです。自分の修煉の道を振り返ってみて気が付いたのですが、「二心」があるからこそ、時々正しくない考えが生じ、正念と人心の取捨選択の中で邪魔され、神の状態に達することができず、絶えず人を救うチャンスを逃してしまっていたのです。
今も迫害は、時々刻々に世の人々を毒害しており、大法弟子が衆生を救い済度するという最も大事な事を阻んでいます。そのため、直ちにこの発生すべきではない迫害を制止することを、我々大法弟子全体で「一心」にやらなければならないのではないでしょうか。
2007年9月6日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/3/162036.html)
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