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本をよく読み、なおいっそう実修すべき


 文/大陸大法弟子

(明慧日本)最近、私の地区で現れたある現象から修煉上の一つの問題を連想しました。それはある同修が法を学ぶなかで、本を読む形式を修煉の全部と見なしていることです。ここで、同修たちと切磋したいと思いますが、間違いがあれば、指摘してください。

 私たちは何か問題にあった時、たとえば、迫害と妨害問題(修煉上の問題も含む)について、皆さんはよく「本をよく読む」と言いますが、資料作り、講真相等の問題においても「学法と煉功を確保すべき」ことが強調されています。事実上ここ数年間、困難かつ屈折した日々を経て、法を学ぶことは大法弟子にとっての大切なことであり皆それぞれ認識することができています。学法と煉功についてもよくおこない、毎日の学法、煉功も中断せず、真相資料作りと協調する仕事をうまくやり遂げ、地域で大いに役に立てています。

 それでも色んな原因による妨害と取り残された執着のもたらした不和が現れてきます。交流を通じて法を良く学び、法の上で向上してこそ、初めて様々な妨害を突き破り、取り除き、人間の観念を打ち破ることができることも皆は認識できていますが、でもある問題はまだ繰り返されて、全体の妨害となっています。原因を究明してみますと、それは一部の同修が法を学ぶことを修煉内容の全部とみなしているからだと思います。

 本を読み、法を学ぶことは必須で、法を学ぶことは向上することです。それでは、普段私たちも法を学ぶ時のような状態で、自分の心を修めなければならないのではありませんか。平常、日常生活にしても、常人の仕事にしても、それとも講真相にしても、その問題と自分の心を法理と照らし合わせなければなりません。もし出来ていなければ、法を学ぶ目的とは何でしょうか、迫害と妨害、或は心性問題にあった時に、ただ「本をよく読む」の一言で終わらせ、本当に実修していなければ、修煉しないに等しいと思います。

 師父は法の中で私たちにこう教えてくださいました「わたしが見たところ、皆さんは往々にして法を学び煉功している時には、心理状態がとても良いのだが、いったん仕事に接し、人と接すれば、常人と同じになってしまい、時には常人にもおよばぬほどなのだ。これがどうして大法を修煉している弟子の行為であり得るのか?」(『精進要旨』「環境」)

 実際に真相を伝える時や、修煉の時にあったトラブルは皆、私たちが小事にこだわりがなく、自分の行いの中で現れた心に対する油断がもたらしたものだと思いま。甚だしいきにいたっては、トラブルが大きくなれば、それは本を読む時間が足りないからだと思い込んでしまいます。心を修めないで、まるで修煉イコール法を学ぶことのような考えはいうまでもなく正しくありません。はっきり言いまして、「学法」という二文字の内包を明晰に認識できていないことだと思います。

 師父が《精進要旨》の「法を学ぶ」と「修煉とはなにか」の中でもう既に、弟子である私たちにどうしたらよいかを教えてくださいました。したがって、私たちの修煉は学法と煉功のときに止まらず、真相資料の仕入をする時や、パソコンを治す時、また編集をする時や、資料の用意をする時、資料を届ける時、ネットを利用している時、そして真相を伝える時などなど、それらのすべてを行なうときにも1人の大法弟子として行動すべきである。特に交流会での交流は、自分の心に注意を払わなければなりませんし、他人の意見や皆が行ったことと、自分の態度を法理と照らし合わせて言行を慎むことだと思います。

 日常自分の心を揺さぶることに出あう全てのことは、修煉の要素を含む可能性があります。外部からの干渉にしても、内在的な要因にしても、その事に対する認識をおろそかにしてしまい、その執着心を利用して法理上で悟り、取り残された常人の観念と考え方を切り捨て、真に実修することが出来ないままの状態が続いていたら、三つのことに影響を及ぼすことになります。ですから、重視すべきことは本を読み、法を学ぶことだけではなく、普段自分が何かを行う時の心理状態、言行及び出あった全てのことを重んじ、個人修煉をおろそかにしないことです。師父がおしゃいました「做ところ到るは是修」(『洪吟』「実修」)。

 2007年9月10日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/6/9/156528.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/6/17/86851.html