文章が発表されないことで、自分の不足を反省する
文/中国大陸大法弟子
(明慧日本)何日か前に、明慧ネットでの迫害を終わらせることについての交流文章を読んでから、自分の考えを書いて投稿しました。しかし、いくら待っても発表されませんでした。すると、機嫌が悪くなり良くない考えも絶えず頭に浮かんできました。ふと師父の肖像を見ると、師父がとても厳しい表情で私を見つめておられ、びっくりした私は、落ち着いて自分の不足を探し、次のいくつかのことを意識しました。
一、法を実証する立場ではなく、自分を実証する立場で「迫害を終わらせる」という文章を書いたのです。書いたときには気が付かなかったのですが、今振り返って考えると、実は大きな執着が潜んでいると分かりました。
明慧ネットはもう完全に成熟して、師父も見守ってくださっておられますから、大法弟子としては、無条件に明慧ネットを圓容すべきです。投稿してから、何日たっても何の結果もないことに対して不満が出るなど、それは無条件に明慧ネットを圓容する要求に達していない表れです。
三、迫害を終わらせるには我々がどうすべきかだけを考え、その裏にある大法の内涵を疎かにし、法を正すのは師父であり、我々は法を実証するのだということを忘れていたのです。
四、「三退」については、私は何十人もの勧告に成功しました。もし皆もこのように何十人に勧めれば、師父が与えてくださった仕事ももう終わったのではないかと思い、その裏に精進したくないという心が潜んでいます。
五、「迫害を終わらせる」こと自体にあまりにも執着し過ぎました。もう迫害されたくない、早く終わらせようとだけ思い、迫害を終わらせることの内涵には大法が宇宙のすべてを圓満し、その中に我々が衆生を救い済度するという使命も含まれているというところまで考えませんでした。また、世の人々に迫害を終わらせてほしいと願っている心もあります。それも実は人心で、中には、迷いの中の衆生を軽視する気持ちがあり、大法弟子はただ人を救う責任があるという師父の要求からかけ離れているのです。
六、明慧ネットの読者群は3つあります。私たちが文章を書く目的は他人のためで、別に自分の見解を発表するとかいうことではありません。だから、読者の立場に立って、明慧ネットの全体での交流効果、真相を伝える効果、邪悪を震撼させる効果という角度から考えなければなりません。
2007年9月11日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/8/162292.html)
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