日本明慧
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「慈悲」について


 文/鶴童(海外)

(明慧日本)ある事について、私が住んでいる州の大法弟子は、長い間論争し、それによって、間隔が生じました。ある「前世が分かる」大法弟子は、いつも自分が知っている前世の物語で他の同修と交流しようと思っていました。しかし、それを聞きたい同修もいれば、聞きたくない同修もいます。だんだんと同修の間で摩擦が生じ、最後には意見の対立した二つのグループに分かれてしまいました。対立が激化するにつれて、同修たちは激しい論争に陥ってしまいました。前世の物語を聞いてみたいという同修は、それが自分の執着していることを理解するのに有益であり、執着の放下に有益だと言い、反対する同修は、それが一つの妨害であり、前世に対する執着であると主張しています。論争している間、その前世の物語を話す同修はずっと黙り込んでいました。

 論争しても結果が出ないので、その同修と交流することにしました。その同修は自分の考えを聞かせてくれました。その同修の本意は前世の物語により、困惑を解き、執着を除去することを手伝おうとしたのですが、自分の除去されていない人心が旧勢力に利用されたため、プラスにならない話をしたりしてしまいました。その同修と何度も交流してから、彼は自分の間違いが分かるようになりましたが、しばらくの間彼は消沈状態に陥ってしまいました。つい最近、彼はその関を乗り越え、三つのことをよく行うようになりました。また旧勢力の迫害をはっきり見分けるようになってから、正念も強くなってきたました。

 ここで言いたいのは、「前世」そのものではなく、またその同修のどこが悪かったのかを指摘したいのでもありません。個人の観念を打ち破ることにより、慈悲が生ずるということについて、自分が得た悟りを皆さんと分かち合いたいのです。前世の物語を話すことに賛成する2人の同修がいますが、彼らの情が重いのは、前世の物語を知る同修がよくその話をしているせいだとずっと私は思い込んでいました。だから、一方では彼らに「前世の物語に執着しないでください」とか「前世の物語で執着を強めないでください」と忠告する一方、前世を知る同修とはずっと交流しませんでした。

 しかし、私は自分の中に潜んでいる執着心に気付いたのですが、それはこうなったのは彼のせいだと思い込み、無意識に彼を排斥していたことです。しかし、本当に冷静な心で、慈悲心を持ち、自ら進んでその同修と交流したら、彼も自分の考えと法を正す過程についての認識を詳しく聞かせてくれました。又、彼もその2人の同修とずっと交流していますが、文化の違いでその2人の同修はすぐに修煉と法を正す過程での違う段階の内涵が理解できず、ただ、この過程の中でみんなは確実に進歩しているということも教えてくれました。彼と交流した後、自分のその頑固で強大な人の観念がなくなり、その代わりに表われたのは慈悲心でした。

 彼と交流した後、私は師父の『米国首都での説法』を思い出しました。「皆さんにとって最も主要なこと、つまり現在の最大のことは人を救うことです。このことがなければ、皆さんに教えますが、皆さんの修煉は随分前にもう終わったのです」。『米国首都での説法』を繰り返し学んでから、もう「自己」に執着せず、全体として「衆生を救い済度する」ことが今目の前の一番重要なことだと認識しました。そして、それはただ衆生に対する慈悲だけではなく、身の回りの同修に対しての慈悲でもあり、全体に対しての圓容でもあるのです。

 2007年9月13日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/8/162290.html