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選択


 文/古風

(明慧日本)労働教養所から帰ってきた時、私は非常に落ち込んでいました。大法弟子として、絶対書いてはいけないものを書き、消せない汚点を残してしまったと思うと、もう大法を修める資格がない、生きる意義も失ったと思って、やけくそになりました。師父が何回も分からせるようにヒントを与えてくださり、私も洪大な師恩に感激のあまり、いつも涙を流したにもかかわらず、やはり修めても、どうせ肝心な時はだめになるから、いっそ辞めたほうが良いと思って、なかなか決心がつきませんでした。しかし、本当にやめように思ったら、すでに深く心に根を下ろした大法を簡単にやめられるのでしょうか。

 同修たちもずっと励ましてくれたし、色々考えた末、とりあえず行けるところまで行こう、修めないより修めるほうがましだと思って、私は再び修煉の道に戻りました。

 そうしたら、私の正念を啓発するように師父が順順に導いてくださり、私も正念が少しずつ強くなってきたと感じました。しかし、旧勢力は簡単に手を離そうとしませんでした。回り道から戻そうとする時のもっとも大きな障害は恐怖心なのです。旧勢力もそこから付け入りました。それらはいつも私を捕まえるかのように、パトカーを私のそばに止めるように按排していました。そのことがあるたびに、私はいつも恐れてしまい、なかなか強大な正念で対処できませんでした。その挙句、とうとうある時、悪人に密告されたと教えられた翌日に、何台かのパトカーが私の勤める工場に乗りつけたのを見ました。「もうお仕舞いだ、投獄されたら死んでしまうに違いない」と思い、もうパニック状態になり、とても耐えられなくなりました。しかし、物事が極まれば必ず逆の方向へ転化するのか、私は急に「たかが死ぬだけだ、もうどうでもいい、勝手にしろ」と覚悟して、心が軽くなりました。もうくたびれたので、休憩室で横たわって寝ることにしました。30分後、目が覚めたら、なんとパトカーはもう帰っていたのです。

 今回の経験で私はかえって目覚めるようになり、旧勢力の下心を見透かしたのです。それらの目的は他ならぬ、私たちを壊滅させるためです。だから、それらの按排にいかなる希望を抱いてはいけません。今度の件を通して、私は意識的に恐怖心に立ち向かい、それを取り除くようにしました。

 師父が説法の中で何度も旧勢力の按排を全面的に否定しなければならないと説かれました。弛まぬ法の学習に従い、旧勢力の按排への否定はますます徹底的になってきました。法に符合しない考えに気付きさえすれば、すく否定するのです。又絶えず法を学び、精進するにしたがって、心理状態もますます落ち着くようになり、執着心がますます少なくなり、その代わり、正念がますます強くなってきました。こういう状態の下で、とても手軽に、順調に真相を伝えられるようになりました。頭の中には旧勢力の按排したさまざまな要素を認める考えがないので、それに相応して、外部環境での邪魔もとても少ないのです。しかし、まだ気づかない旧勢力の要素があるので、たまに何かのことが起こるのです。

 このような「意外」にあったことがあります。密告されたため、妻が公安局に連行されました。そうすると、彼女は正念を発しながら、理性をもって邪悪の按排を否定しました。公安局長はもう真相が分かっているので、ただ見せかけのことをしただけで、奥さんを釈放しました。後で妻と何処に漏れがあったのかについて探しました。私の認識としては、旧勢力の按排を全面的に否定するということは、大法弟子が皆それを認識し、また実際の行動でもそのようにやらなければならないということです。わずかであっても、それらを認める考えがあれば、その隙に乗じられるのです。認める部分が多いだけ、乗じられる部分も多いのです。又、旧勢力の介入は往々にして壊滅的なのです。つまり、それらの按排した関を乗り越えないなら、壊滅されてしまうことになるし、乗り越えたら、更に大きな関と魔難を設けては乗り越えさせ、最終的にはやはりそれらの按排した関を乗り越えられないのです。例えば、不法に強制連行された同修は大体「修煉を又続けるか?」とまず聞かれるのです。断然と「続ける」と答えたら、もうその関を乗り越え、釈放すべきではないかと思うと、実はそうではなく、不法に拘禁されたり、投獄されたりしてしまうのです。つまり、いざ旧制力の按排を認め、それらの按排した関を乗り越えるとしたら、それを理由にとことんまで按排するのです。その中で、大法を確信する心で邪悪を震わせたとしても、旧勢力の壊滅的な按排を見透かし、打ち破ることができないため、迫害により死んだ同修もいます。だから、正しく選択することがとても重要なのです。旧勢力の按排も私たちが打ち破る時点で作用を果たさなくなるのです。

 ですから、マイナスの要素に対して、最初それに気づいた時点でもうそれを否定すれば、後続も自然になくなるのです。心は常人社会のさまざまな変化にしたがって動かすことなく、師父の要求される三つのことをよく行い、精進して、確実に修めることができれば、一番理想的だと思います。勿論私たちはまだ人心があります。しかし、師父が必ず分からせるようにヒントを与えてくださるのです。もしヒントを与えてくださっても、気にしなかったり、或いはそれは人心だと分かったとしても、口実を作って隠そうとしたり、放任したりすれば、旧勢力に隙に乗じられがちです。今までの迫害の事例を見ると、殆どは執着心があるから、迫害されたのではなく、師父にヒントを与えていただいても、他の同修にいくら注意されても、全然気に留めず、長い間、執着を取り除かないから、最終的に迫害されたのです。

 世間での修煉は確かにとても難しいのですが、違う次元での生命は私たちの執着をはっきりと見ています。修煉と法を正す道を正しく歩まなければ、今までの成果が無駄になる可能性があるのです。一定の境界では、生命の存在の鍵は選択なのです。特に宇宙が法によって正されるこの大事なとき、すべての生命が選択しなければなりません。法輪大法を選択すれば、未来に入ることになり、それは生命の根本的な選択なのです。我々は修煉者として、当初大法を修めることを選択しました。しかし、修煉中どの道を歩むのか、旧勢力の按排した道なのか、それとも、師父の按排された道なのか、理屈上、皆師父の按排された道を選択すべきだと分かっています。ところが、法理をはっきり認識できなければ、見分けることができず、間違った道を歩んでしまい、損失をもたらしてしまうこともあります。だから、法を多く学ぶことこそ、正しい道を歩める前提条件なのです。

 この文章が同修の皆さんの少しでも助けになれば、とてもありがたく思います。何か不適当なところがありましたら、慈悲なるご叱正をお願いします。

 2007年9月15日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/12/162548.html