本当に自分が法を学ぶようにする
(明慧日本)最近、7.20の時にうまく関を乗り越えられなくて、保証書を書き、一緒に北京へ陳情に行く同修の名前を教えてしまったということを思い出しました。常人社会で養成した名を求める心のせいで、いつも「高尚」な理由、体裁のよい言葉で自分の執着心を隠そうとして、特に執着を隠すため、大法を自分の都合の良いように引用し、例えば、「大法の要求としては本当のことを言わなければならない」とか言って、自分が恐れるため同修を裏切ったと言う行為に口実をつけるようなこともあることに気付きました。又そのすべての考えは意識的ではなく、私の主意識、分かっている一面に分からせないように、とても深く潜んでいる空間で密やかにしているような感じがします。その潜んでいる不正な考えのせいで、私は堂々とすることもできないし、確固たる金剛不破の正念ももてないのです。つまり、私のその輝かしい表の裏に恐れ、ずる賢さ、虚偽、私心、僥倖、見栄えなどが隠れています。いざ厳しい試練に直面する時、それは意気地がなく、恐怖、猜疑、妥協に変身し、更に自の真念を放棄までするのです。
修煉は厳粛なのです。内心を本当に変えなければ、それは嘘で、水泡のようで、自分を騙し人をも騙すような行為に過ぎません。実はこういう汚い観念は普通法を学ぶ時にも時々浮かんできているのです。例えば、ある説法をあまりはっきり分からなかったり、疑わしく思ったりするときに、一体私のどの執着心や後天的観念に突き当たったかと真面目に内に向けて探し、それから、それを見つけ、除去するのではなく、「大法を疑ってはいけない」という簡単な一言でごまかしたのです。しかし、自分の執着もそれにより隠され、表面上大法を確信しているかのように見えますが、内心は根本的に変えられていません。
この問題を見つけたからには、解決しなければならないと思いました。『論語』を暗誦するたびに、いつも第3段落の最初の言葉を思い出せませんでした。昨日も同じでした。昔はそのまま放っておいたのですが、今回はごまかさずにその原因を究明しようと思いました。「今日の人類の科学がどんなに進もうとも、宇宙の奥義の一部に触れているに過ぎません」私はこの言葉を繰り返して読みながら考えましたが、こんな短い言葉なのに、なぜ覚えられないのだろう。又、それを読む時に、自分はとても落ち着かなくなったと意識しました。急に私は分かったのですが、実は私はこの言葉をずっと信じていなかったのです。長年学校で受けた教育のせいで、実証科学は私の頭に根を下ろし、どうにも動かしがたい観念が形成されました。科学への崇拝と迷信で私は潜在的に大法を疑い、抵触したのです。それはなんと恐ろしい観念でしょう。すると、私はすぐ正念を強め、その後天的観念は私ではないと見分けて、師父が説かれた宇宙の奥義と真理で実証科学の迷信を打ち破り、それから、科学を盲信している観念がなくなるまでずっとこの言葉を繰り返し暗誦するようにしました。
大法は厳粛なのです。修煉いうのは内心を変えなければ何の意味もないのです。私は元々、常人社会でいろいろと「高尚」な言い訳をつけて、自分の本当の考えを隠そうとしていました。何かをするときに、真心を込めて、他人のために考えるのではなく、いつも自分の次元、自分の名声を先に考えてしまったのです。これで正真正銘に生活し、修煉することができないのでしょうか。名声のために何かをすると言うのは修煉と言えるのでしょうか。自分に言い訳をつけるのは修煉なのでしょうか。
法を正す過程はすでに最後になりました。人心を徹底的に放下し、真に修め、確実に修めて始めて、師を助け、法を正すと言う願望を成し遂げられるのです。
今日、こういう感想を書いたのは、この深く潜んでいた心を暴き出し、取り除くためです。それと同時に、私と同じような執着心のある同修たちにもこれを持って戒めていただきたいのです。
2007年9月16日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/13/162586.html)
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