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師父に助けを求めることから悟ったこと


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)大法弟子としては、面倒なことに遭うと、師父に加持を求めたり、助けを求めたりすることは意気地がない表現だとずっと思っていました。しかし、後で気が付いたのですが、こういう考えはしっかりした見解のように見えますけど、自分を実証することや自分の考えを固持する部分もあり、うまく対処しないと、思い上がってしまう可能性があるのです。人によって事柄によっては違いますが、この考え方は法を正す必要性ではなく、個人修煉を重んじる部分があると言ってもいいでしょう。

 修煉者として、現れてきた執着心をいつも師父に頼るのではなく、自ら修めなければなりません。そうでないと、主意識がはっきりしないため、自分を修めないことになります。

 しかし、法を正す時期に当たって、師父は法を正すため、宇宙全体を救うためにいらっしゃったのであって、すべての生命は師父によってきれいに洗い流されて始めて未来の宇宙に入ることができるということをはっきりと認識しなければなりません。自分が師父の要求される標準までに修めることができると思い込み、師父に助けていただく必要のある時でも、求めようとしなかったり、求めることを忘れたりしてはだめなのです。それは赤ちゃんが自分の力で体をきれいに洗えないことと同じなのです。

 我々はもともと古い宇宙の生命なのです。自分の力だけでは、いつになっても古い法理を抜け出すことができないのです。師父が大法を授けてくださるおかげで、先天の純粋な標準が分かり、それによって自分を徹底的にきれいに洗う可能性があったのです。自分を旧から新に洗う過程の中で、自分の力で及ばない範囲でのことを師父に求めることこそ、「古い自我」を捨て、大法に同化することによって「新しい自我」に変身しようとする決心を表したのです。この心が一番貴重で、師父が望んでおられるのも他でもなく、私たちのこういう心なのです。

 それから、私が師父に助けを求めようとしない裏には何かの観念が潜んでいるのではないかとも悟りました。人に頼りたくないという言い方がありますが、根本的に言うと、その人に頼りたくないことも一種の自己保身ではないでしょうか。(特に同修同士で向こうに助けを求めることがなければ、こちらにも助けを求めることがないだろうと言う考え方を持つこと)実は、私(し)がなければ、「自我」もないことになり、そうすると、自分は全体の中に含まれ、自分も同修達も全体の一粒子になります。一つの全体である以上、お互いの「助け」は即ち協力し合うことで、全体を圓容することになるのです。だから、全体という立場から考えると、それは助けるとか助けられるとか言うようなことではないでしょう。

 こういう意味では、大法弟子同士の助け合いや師父に助けを求めることは単なる常人同士の助け合いではなく、すでに師を助け、法を正すことと関連しているのです。自分が大法弟子全体に溶け込んだもとで助けを求めるのであれば、それは純粋な求めなのです。さもなければ、主意識がはっきりしていないことや怠けること、外に向けて探すことになるのです。

 だから、法を正す時期の大法弟子として、我々は自分なりの道を切り開かなければなりません。しかし、どうしても助けが必要なときに、周りの同修達、更に師父がおられることを忘れないでいただきたいのです。

 長い間、必要なときに、なぜ師父に助けを求めることを忘れたり、求めようとしなかったりしたのかとずっと自問してきましたが、それは師と法への確信がまだ足らなかったからだと今分かるようになりました。そして、法理をはっきり認識しなければ、正しい信念も足らなくなるということも分かりました。

 不適当なところがありましたら、ご指摘くださるようにお願いします。

 2007年9月21日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/19/162979.html