子供が母親に告げ口をすることから思いついたこと 文/欧州の大法弟子
(明慧日本)その日、夫婦とも大法弟子の家へ法の学習に行きました。主人が法を学ぶことにしたので、私は自分の子供と他の同修の子供の面倒を見る役にになりました。男の子三人と女の子二人で合わせて五人でした。後で面白いことに気が付きましたが、男の子たちはいたずらで腕白でしたが、注意されると、すぐおとなしくなり、入ってからドアを閉めなさいと言うと、言われる通りにするのです。それに対し、二人の姉妹は、(この家の子供達なのですが)普段は無口で、おとなしそうに見えますが、ちょっと私の言葉に不満でもあれば、すぐ自分達のお母さんのところへ告げ口に行きます。そうすると、彼女たちの母親が後押ししてあげるのです。
例えば、彼女らにドアを閉めなさいと言いかけると、まだ話が終わらないうちに、もう母親のところへ告げ口に行ってしまうのです。それを目にして、「大法弟子なのに、何で子供をこんなにずる賢くしつけたのだろう。まだ四才なのに、全然苦を嘗めようとしないし、ちょっとした不平にも我慢できない。また、ややもすれば、すぐ告げ口をしてしまうなんて」と思ってしまいました。
しかし、後で非常に驚いた事なのですが、この女の子二人の欠点は私の身にも存在するという事に気が付いたのです。表面上は、法を実証するときに、苦に耐えることができ、時々、同修に不満に思われても我慢できるように見えますが、突っ込んで考えてみると、責任者とのトラブルがあるたびに、もし師父にお会いしたら、どうやって告げ口をしようかといつも考えているのです。それは子供が母親に告げ口をするのと何の区別があるのでしょうか。表面から見れば、法に責任を負う立場で、法を実証することを妨げた責任者の問題を見つけたように思えます。例えば、私が人手不足のプロジェクトに参加することを阻み、集団で仕事をするとき、いつも延ばしたり妨げたりすることになったことです。ところが、最後の結果を見ると、ほとんどは法を実証することに対して、実際に影響を与えたことはないのです。本当の問題は、単に私が心を放下できないところにあるのです。
それから、責任者の振る舞いを見て、感じた不平や非難はちょうど私を向上させるために設けられたものではありませんか。失ったものは実は皆悪いものなのです。
それに、なぜ、他の同修とのトラブルで生じた心性の試練なら、落ち着いて対処できるのに、責任者になると、落ち着きを失い、機嫌が悪くなったのでしょうか。それも分別する心ではありませんか。責任者もいれば、普通の同修もいると言うような環境の中で修煉するのは、常人社会の形を利用して修煉するのと同じ理屈ではありませんか。我々はその形に執着したり、更に等級観念や分別する心を持っていたりするのではなくて、これらの「無形」の「形」をよく利用して自分を修めるべきです。
以上は最近の私の悟りなのですが、次元に限られたもので、不適当なところがありましたら、慈悲なるご叱正をお願いします。
2007年9月22日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/19/162980.html)
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