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やりきれないのは、やろうとしないから


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)4月に明慧ネット上で、集団煉功の知らせが掲載された際、私は最初のころはよく続けていたし、夜中12時の正念も疎かにしませんでした。しかし、その後、いろいろな理由で、朝は起きなくなり、起きたとしても、五セットを完全にやれなかったり、朝の煉功のために、夜中の正念をしなくなったりするようになりました。最初は頑張っていたのですが、うまく調整できなくなり、だんだん自分にいろいろ口実をつけ始め、気を緩めてきました。

 9月7日に「第4回中国大陸大法弟子の修煉体験書面交流大会」の原稿募集についての知らせが明慧編集部により公表されました。その中の修煉体験に対する要求「いかに大法に基づいて認識を向上させたのか、またいかに厳格に修煉者の基準で自分を修めるのか、いかに真の法を正す時期の大法弟子として法を実証し、…法を正す全体の要求を、いかに積極かつ主導的に受け入れるのか」を読んで、いろいろ考えさせられました。

 集団で正念を発することに関しては何の異議もありません。直ちに迫害を終わらせるためには他の空間の邪悪をある程度清掃しなければ実現できないと思います。それに、たとえ他の時間に多く正念を発して、補うとしても、皆で一緒に正念を発する時とはやはり全然効果が違うのです。ましてこれは師父が要求されたことなのです。迫害が続くことは我々大法弟子が認識をまだ高めていなということですし、また私たちの心性と行動が法を正す過程の要求に追いついていないからです。そのように、集団煉功が二の次に位置付けられていいのでしょうか。勿論個人の円満成就と身体の演化という角度から見れば、それは最も主要なものではないでしょうが、法を正すという大局からすると、その意義は一般的に同じではないのです。師父は非常に多くの巨大な天体を正すのにあたり、非常に多くの巨大な法輪を回しており、私たちもその中で、同じ時間に同時に煉功し、同時に演化し、法輪が時計回りに回転すると自分を済度し、逆時計回りに回転すると、人を済度しつつ、良い部分を残し、悪い部分を取り除いています。この過程が、正しきに帰り、済度することなのです。全体が一つの機制下で運転すれば、全体での向上ができ、また我々自分自身の小宇宙、我々の境界以下の宇宙も皆、師父が統一する演化の中で進行し、それはなんと素晴らしい効果になることでしょうか。

 師父は説法の中でどんな立場で物事を見るべきかについて何度も教えてくださいました。つまり、それは大覚者の立場、超能力の立場、高次元で見なければならないのです。法を正す時期にあたっては、如何なることも小さなことではなく、皆深層の原因があり、皆法を正すことへの要求、法を正す修煉への要求なのです。ただ私たちは人の基点に立ち、それが認識できないだけなのです。だから、時間通りに朝の集団での煉功に参加するのも積極的かつ主動的に法を正す全体の要求を受け入れることであり、とりわけ大法弟子の主体は中国にいるのです。

 法理上で分かったら、実際の行動上でもしっかりしなくてはなりません。しかし、それでもまだ二つのことは気に掛けず、たとえ起きたとしても、うとうとしていて、効果があまりよくなかったのです。後に、同修と切磋琢磨してから気がついたのですが、私は本当に厳しく自分を律したのでしょうか。よく出来なかったときに、本当に内に向けて探し、その根を掘り出し、自分自身に基づかなかったのではないでしょうか。正に師父が説かれたように、「もし一回目に乗り越えられなければ、二回目は自分を制御するのが難しくなります。しかし、次のようなケースもあります。一回目は乗り越えられませんでしたが、目が覚めたあと、悔しくてたまりません。このような気持ちや状態が、強く印象に残っていれば、再びそれに遭う時には、自分自身を制御することができ、乗り越えることができます。しかし、乗り越えられなくても平気でいられる者は、今後もっと自己制御が難しくなります。絶対そうなります」(『転法輪』・「煉功して魔を招く」)。私は本当に自分ができないということに対して悔しくてたまらなく思ったのでしょうか。或いは、簡単に自分を許してしまったのでしょうか。修めるとは、何でしょうか。修めるとは、やりとけることなのです。

 修煉の道程では立ち止まってはいけないのです。すでに出来上がった自動的な機制を一旦打ち破ったら、再び回復するにはもっと強い意志を持たなければなりません。外在的で客観的な理由を口実にせず、新たに時間を調整し、定刻通りに効果を保証する夜中の正念と早朝の煉功を完成しなければなりません。しかし、早く寝ようと思いましたが、なかなか眠れず、目を閉じると、いろいろなことが頭に浮かんでくるのです。私は、自己に圧力を掛け、自己に命令し、すみやかに眠りました。(すると)二つのことが定刻通りになり、意識も冴えていました。このように何日間か続け、だんだん慣れてきてから、また睡眠時間を減らしてみました。私が思うに、一旦正常な機制が運転し始めると、それは自動的になり、その後はそんなに難しく感じなくなるのです。それは、自己に対して厳格に要求していなかっただけでなく、その中には法を実証する要素も包含していました。

 この過程を乗り越えてから、一つの理が分かるようになりました。つまり、修煉者にとって、できないということはなく、やろうとしていることができないと想っているだけで、できると思いさえすればできるのです。それは関を乗り越えることでも同様で、乗り越えようとさえすれば、乗り越えられるのです。

 2007年9月29日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/26/163270.html