幾多の人心を探り出し、落ち着いて法を学び、執着を取り除く
文/中国広東の大法弟子 暁慧
(明慧日本)最近、私の状態はあまりよくありませんでした。睡眠時間が少ないと眠くなり、仕事を長くすると疲れを感じ、法の学習と煉功の時にもよく気が散っていました。それはなぜでしょうか。なぜ人という殻をなかなか突破できないのでしょうか。なぜずっと法を正す時期の大法弟子のあるべき正念正行の状態を保てないのでしょうか。自分の心を探すと、名誉や利益を求める心、男女の情、自分を守る心などなどを見つけました。よく法を学べばそれらのよくない物質を取り除くことができると分かっているものの、なぜよく法を学べず、よく眠ったり気が散ったりしたのでしょうか。
この「眠い」によって、法の学習や正念を発することが随分妨害されていましたが、その中には自分が正しくなかったために求めていた要素があるのです。
私は、師父の2003年の新年挨拶を暗誦した時の感想を思い出しました。それははただ一言「中国大陸の大法弟子、明けましておめでとうございます。 全世界の大法弟子、明けましておめでとうございます。」なのですが、最初にこれを読んだ時、どうしてもその中に含まれた法理が分かりませんでした。そこで、私は繰り返し暗誦することにしました。そうしたら、暗誦しているうちに、突然、一陣の熱い流れが全身を駆け抜けていくのを感じました。私はさっと分かったのですが、ただ一言なのに、師父の洪大な慈悲、すべてのすべては皆その中に含まれているのです。
しかし、心を静めて法を学べるようになってからも、やはり妨害や試練があるのです。例えば、夜中まで法の学習をしたら、翌日になって、眠気がしたり、疲れを感じたり、目の縁が黒くなったりしました。寝不足だから、睡眠を補足しようと思ったら、またすべてが常人状態に戻り、眠気から抜け出せなかったのです。その時、私は師父の説法を思い出しながら反省しました。何でこのぐらいの苦にも耐えられないのでしょうか。何でこの次元にずっと止まって、一歩先に踏み出せないのでしょうか。それは眠いから仕事と勉強に影響を与えることや、顔色が悪いから具合が悪いと言われるのを恐れているのではないでしょうか。しかし、それは常人の考えではないでしょうか。
私はいつもこういうことも考えています。いらいらする気持ちは何でしょか。それは常人の心に他ならないのです。がっかりする気持ちは何でしょうか。それも常人の心に他ならないのです。興奮する気持ち、誤解された時に急いで弁解しようとする気持ちは何でしょうか。それもやはり常人の心に他ならないのです。仕事だけをこなし、三つのことを疎かにするのはどんな人間なのでしょうか。それは修煉者ではなく、常人に他ならないのです。では、よく行いましょう。ただ時間が足りず、どうすればいいでしょうか。いや、この一念もまた常人の考えではないでしょうか。本当に難しい、しかし、難しいからこそ、そこから抜け出すことができれば、大法修煉者としての威徳を築き上げることができ、偉大な宇宙大法を実証することをやり遂げられるのではありませんか。
2007年9月30日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/26/163356.html)
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