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我々の神の一面を目覚めさせよう


 文/中国大連大法弟子

(明慧日本)理不尽な迫害が現在八年にも及んでいますが、迫害を徹底的に取り除かない限り、邪悪な要素は我々が法を実証し、衆生を救い済度することを妨害するのです。迫害を早急に終わらせることができて、我々は始めて、師父の按排された道を歩み、一切の衆生を済度できるのです。だから、如何にして徹底的に邪悪のいかなる按排をも否定し、この迫害を取り除くのかについて、法理上はっきり認識しなければなりません。最近、法の学習を通して、新しい会得がありました。ここで同修の皆さんと交流したいと思います。

 一、我々の神の一面を復活させよう

 師父は、かつてこう説かれました。「当時、私は表面的な身体の転化が、よく修煉できた部分と協調し、身体を修煉の中で人間の状態から離れさせ、修煉の弟子が自分の正念で人間と同じ状態を保つようにしたかったのです。これらの問題のために、私はそれらと一年対峙しました。当時、私はこのために法を伝えなかったのです。一年間、対峙していました。今になっても、私はそれらが堅持することを認めず、将来も決して認めないのです。これを妨害し、破壊することに関わるすべての生命は、必ず償いの中で解体されます。私は必要なものなら、たとえ歴史を戻してやり直しても、私のことをやり遂げなければなりません。これは法を正す中で、なくてはならない内容と過程です。これは法がこの世を正すことを指しているのではありません」(『ロサンゼルス市での説法』)。

 私の理解ですが、師父の本当の按排というのは、法を正す洪大な勢いがまだやってきていない空間で我々の神の一面が邪悪を清掃し、衆生を救い済度する作用を果たすようにされたいのです。しかし、旧い要素は大法弟子の人の一面と神の一面を隔てていて、また上界の生命と世の人々をも隔てていて、これにより衆生の救い済度と法を正すことを厳重に妨害したのです。もし最初から師父の按排された通りにすれば、この迫害は起こらないのです。そして、大法弟子を迫害する時に邪悪はこんな手段をとり、つまり、修めて出来上がった一面を隔てて(もし、その主意識からの正念が強い場合には、それらは隔てることができない)、人の一面の執着と観念を強化しています。

 「これは法がこの世を正すことを指しているのではありません」と師父がおっしゃいましたが、私の理解では、それを達成するためには、法がこの世を正す前に、大法弟子の神の一面が人の一面と協調して、法を正す中で本当に作用を発揮することです。またそれはすべての衆生を救い済度するという法を正す中での要求でもあります。神の一面が本当に復活した下で、我々が揃って五分間の正念を発すれば、迫害を維持するすべての邪悪な要素を全部解体するにちがいありません。そうすると、いかなる外来要素にも制御されていない下で、衆生は自分の未来を選択することができますが、これこそが師父の要求なのです。そして、もしこれらのことを師父が直接なされるならば、それは法がこの世を正すことで、衆生は選択の機会を失います。だから、これもまた直ちに迫害を終わらせるという問題なのです。

 昔、この間隔の要素に対して、大法弟子は成す術がなく、師父しかこの巨大なミクロの要素を取り除くことができないと思っていました。しかし師父のこの説法ではこう学びました。「99年7月20日から始まった迫害の前、一部の大法弟子は高度な漸悟状態にいて、彼らは今回の迫害に反対することに参与できませんでした。誰も彼らを迫害しようとしなかったし、彼らも参与しませんでした。彼らは力を合わせば、今回の迫害を制止することができますが、彼らには何でも分かっています(ロスアンジェルス説法)」。私は悟ったのですが、この要素を全部清掃するには確かに法を正す勢いに頼るしかないのです。しかし、大法弟子は神の一面を合わせれば、その要素を抑制することができ、それによって、迫害を制止することができるのです。

 大法弟子の修めて出来上がった神の一面は皆新しい宇宙の異なる次元の基準に符合しているのです。彼らの法を正すことに対する認識は異なる次元の正しい悟りで、この迫害を徹底的に否定するのです。しかし、修煉の中では我々の人の一面が主体であり、我々の主元神が指示を出して初めて神の一面を動かすことができるのです。我々が正念を発する時はこの作用を果たしているのです。

 師父は「大法弟子は正念の中で神通の功を動かすことができますが、修煉して良くできている一面を簡単に動かすことができません」(『美術創作研究会での説法』)と説かれました。

 では、なぜ我々の正念は神の一面を動かすことができないのでしょうか。『精進要旨』の「道法」の中にはこの内包が含まれていると思います。つまり、我々の人の一面にもし法を正すことに困惑と誤解があれば、我々の神の一面を抑制し、彼らが法を正すことを阻むことになるのです。これも邪悪な迫害を徹底的に取り除くことができない根本的な原因なのです。

 二、本当に師父の選択という立場に立って法を正すことを理解し、我々の困惑と誤解を取り除く

 この前、私たちの地域では、正念がわりと強いと思われる一部の同修が不法に強制連行された事件が起こり、ある同修たちは邪悪が造成したこれらの虚像に困惑しました。「なぜ、かれらはそのように正念が強いのに、まだ迫害されたのか?きっと意識の中にまだ何かに執着していたのに違いない」。またある同修たちは、「邪悪が現れた以上、きっと何かの口実をそれらに与えたのだ。その口実を探し出さなければならないという同修もいました」と言いました。

 昔、私も法に対して同じような誤解を持っていました。迫害が現れた以上、きっとそれなりの理由がある、我々の修煉にはまだ漏れや意識していない執着があるから、邪悪に隙に付け入られても仕様がない。実際、「我々はまだ円満していないし、執着もあるので、法を正すことを迫害する邪悪に口実を与えても仕方がない」と我々は認識していました。これはまた、邪悪がその変異した観念を捉えて口実にしているということですが、我々は邪悪の迫害思考回路に従ってはならないし、そのような口実を自ら招いてもならず、更には彼らの一切の口実を認めてもいけないのです。これまで迫害が起こる度に、我々は内に探しては往々にして以下のような結論を出していました。「わたしたち全体に落ち度があるのだから、迫害が出現するのだ。落ち度があって、いわゆる迫害がある・・」。われわれは、知らず知らずのうちに迫害の中にあって、このような思考回路が邪悪に口実を与えていることに気がつきませんでした。わたしたちは、徹底的にわたしたちの修煉と邪悪の迫害を分けて見るべきで、わたしたちの不足は法の中に帰って正すべきで、邪悪とは一切の関係も存在せず、わたしたちと邪悪との関係は、「取り除くか、取り除かないか」だけなのです。

 我々は法を実証する中でしっかりと内に向けて探し、向上し、「修煉者」の立場からこの迫害を見るという考えを変え、本当に「私は修煉したい」「私は向上したい」という私念を放下し、本当に師父の選択という立場に立って法を正すことを理解し、迫害を見透かして、困惑と誤解を取り除かなければなりません。こうしてこそ邪悪のあらゆる按排を徹底的に否定することができるのです。

 師父は『スイス法会での説法』の中でこのように説かれました。いなかることに関しても、私がこのことに参与したから、皆さんは私の角度から問題を考えなければなりません。これは今まで皆さんに軽視されていたことです」。

 私の理解では、法を正す中で古い宇宙のすべての法理を遥かに乗り越える理があると思います。それは師父の選択「未来の宇宙の選択」なのです。だから、旧勢力のすべての按排に関しては、如何なる口実があるにもかかわらず、法を正す中で見れば、それは道理がないことです。旧勢力そのもの、それらの存在も道理がないのです。それは法を正すことの必要性が第一位にあるからです。つまり、私たちは昔旧勢力とどんな約束があるとしても、迫害を加える者とどんな悪縁があるとしても、正念が足りさえすれば、否定することができるのです。

 邪悪が迫害する時に、同修の落ち度を口実にやっています。しかし、それらは理を自分のものにしてこのようにやっていても、とても怯えているのです。つまり、根本的にはそれらの行為は法を正すことを破壊し、大法弟子を壊滅することになり、師父の選択に完全に背いたからです。それに対して、我々はまだ意識していない執着があるにもかかわらず、師父の選択に基づいて行っているのです。我々は自分の不足を探してよく修めるのはよりよく衆生を救い済度するためで、我々の修めて出来上がった部分は皆とても偉大な新しい宇宙の覚者なのです。われわれは自分を「この世の護法神」と見なし、徹底的にこの邪悪な迫害を否定し、どのような譲歩もあってはなりません。

 時間が長引けば長引くほど、我々の救える人がますます少なくなるものですから、我々は法の中でゆっくりと向上するわけにはいきません。我々皆で精進して、確実に修め、観念を変え、絶えず自分を放下し、師父が法を正す立場で物事を考え、法に対する困惑と誤解を取り除き、我々の神の一面を本当に復活させましょう。我々の正念で最後の邪悪を根絶し、最大な善の念を持って師父の要求を圓容しようではありませんか。

 2007年10月1日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/27/163411.html