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法会の原稿選択についての考え


 文/欧州の大法弟子

(明慧日本)最近、欧州法会に参加しましたが、ここで少し法会についての考えを述べ、ご参考になればと思います。

 現在、法を正すことはもう最後になりました。精進して確実に修めている大法弟子にとって、皆時間の緊迫性、人を救うことの緊迫性を感じていると思います。だから、この時期に開かれた法会の主な目的は、まだ表に出ていない同修がさらに多く出るようにすること、よく行っていない同修がさらによく行えるようにすること、普段は具体的なことに没頭している同修が自分の不足を見つけ、さらによく衆生を救い済度することを行うようにするところにあり、つまりすべては自分をよく修めると同時に、衆生を救い済度するというところに重点を置くべきではないかと思います。

 皆さんはもう気が付いたと思いますが、師父が最近二回の法会への挨拶の中に皆「大法弟子の修煉は、個人の圓満成就のためだけではありません」とご教示してくださいました。これにより師父がずばりと法会の不足を指摘されたのではないかと思っています。今度の欧州法会に参加して気が付いたのは、法会の中で、新しい学習者が法を得てから、体が健康になり、家族が睦まじくなったという個人修錬に関する内容の原稿が多かったことです。個人の理解ですが、このような原稿はやはり法会で読み上げることなく、あるいは、単なる個人修煉の内容を省き、その代わりに新しい学習者として三つの事を行うと同時に心性を高める過程を話したほうがよいと思います。

 それから、大法を実証する体験を話すときに、理性的に自分の不足を探し、自分をよく修めると同時に、いかに更に有効的に衆生を救い済度することができるかという内容ではなく、自分は何をやった、どれだけ多くやったという帳簿付けのようなもので、それを聞いて「言わなければ誰も知らないかもしれない」といった気持ちを感じます。その同修がこんなに多くやった以上、心性の向上と、向上してから人を救うことにどのような助けがあるかという体験がきっとあると思っています。だから、最後の原稿を審査する同修は、もしこのような原稿をもらったら、作者にもっと理性的な角度から交流するようにと助言すれば、更に多くの同修たちが精進して確実に修めるようにすることができると思います。

 以前も国際法会に参加したことがありますが、その法会で、同修たちは皆法を実証することを行うと同時に、絶えず自分の不足を探し、それを取り除いたらまた新しい不足を探すという内容を聞き、とても感動を受けたのです。「その同修たちとの差があまりにも大きいから、勇猛に精進しなければ」という法会から戻ってきた同修の感想をよく聞きます。それこそ「学んで比し修して比す」という法会の目的を本当に達成したと思います。

 だから、これから法会に投稿する同修の皆さんに、自分の原稿は皆に促進の作用が果たせるかどうかをまず考えてもらいたいです。それから、審査を担当する同修にも厳しく審査してもらい、もしその原稿が今の法を正す情勢下で同修に対して促進の作用がなければ、面子にこだわらず、できればその原稿は採用しないようにしてもらいたいです。

 以上、次元に限られた認識ですが、不当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 2007年10月2日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/30/163597.html