日本明慧
■印刷版   

師と法を尊敬する事を再び論ずる


 文/ニュージーランド大法弟子

(明慧日本)昨晩師父の『オーストラリア法会での説法』をいただきました。DVDを通してまた師父を拝見し、師父の教戒を傾聴することができると思うと、喜びが湧いてきました。そして、一気にDVDを見終わりました。

 『オーストラリア法会での説法』を拝見してから、師父の大法弟子に対する指摘と期待、宇宙の衆生に対する慈悲なる済度、師父がすべての大法弟子に代わって耐えて下さった計り知れない業力を感じ取り、感動を受けたと同時に私たちがよく修めなかったことを恥ずかしく思いました。

 ここで師と法を尊敬することについて述べさせていただきたいのですが、オーストラリアの大法弟子は師父に質問する時に、その問いをずばりと出していたことが気になりました。それは別に悪いことではありません。しかし、なぜか分かりませんが、口振りからとても師と法を尊敬する気持ちが見えなかったのです。師と法を尊敬するとよく皆は言いますが、口ぶりに尊敬する気持ちがないのは正に党文化の害毒ではありませんか。

 古くから「一日師になれば、一生父親になる」という言い方がありますが、天上の神は跪いて師父の説法を聞いているということを多くの同修も述べています。弟子である私たちが師父に対してこういう言い方をしていいのでしょうか。私たちの今の表れは、皆後代に残すものですが、こういう正しくないものを残していいのでしょうか。しかし、自分のことを顧みれば、程度は違いますが、同じ問題が存在しています。ですから、この問題を取り上げるのも、絶えず自分の言行を修正し、党文化の害毒を取り除くためでもあります。

 以上は私見ですが、正しくないところがありましたら、ご指摘をお願いします。

 2007年10月3日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/30/163592.html