基点が正しくなければ、間違って悟ってしまう
文/中国大陸大法弟子
(明慧日本)新しく出版された『転法輪』の中の師父の写真の下に「正法十八年春」と書いてあります。最近私たちの地区では、これに気づいた同修がたくさんいます。師父は1990年に伝授し始めたとおっしゃったことがあるから、2008年になるとちょうど18年になるので「正法十八年春」はつまり2008年の春になると法を正すことが終わって、皆も圓満成就して師に従って帰るのだと考えている同修がいます。また師父が2004年1月22日に書かれた「難」という詩の中に「千辛萬苦十五秋」という言葉があるので、「正法十八年春」はつまり2007年だという同修もいます。また2006年と言っている同修もいます。
実は「正法十八年春」がどの年を指しているかは重要ではありません。時間に執着して、考えを無駄なことに使ってしまったことに問題があるのです。この心を取り除かなければ、「正法十八年春」がどの年を指しているかを明確にさせたとしても、また他のところで「ヒント」を探し続けて執着するのです。
普段の表れからもそれらの同修の時間に対する執着が見えるのです。彼らの中には、仕事もせず、救済で過ごし、ただその日の来るのを待っている人もいます。
師父は1998年7月、『長春輔導員法会での説法』の中で「どうしても間違って悟ってしまう人、または極端に悟る人がいるのでしょうか?」と言う質問に対して次のように教示してくださいました。
「実は非常に簡単です。ほかの問題ではなく、ただ考えの基点をどこに置いたかの問題だけです。つまり、あなたは悟ろうとする時、あなたの考えの基点がどこにあるのか、あなたがどの基点に立っているのかのことです。自分自身に放さない執着があり、それの答えを探そうとし、自分の放したくないことを守るために何かを探そうとしていれば、当然のことですが間違って悟ってしまいます。何も考えずに法を読み、法が言っているのは正しいと思えば良いのです。法から自分が正しいと思う内容を探さないでください。法の中から自分の言い訳を探し、それだけを取り上げて自分を守ろうとしないでください。それはいけません。それだったら、読めば読むほど分からなくなります。つまりあなたの基点がどこに置かれているかのことです」。
私の理解ですが、終わるかどうかについては、師父のお心次第です。同修の「悟った」時間、当てた時間は、みな執着なのです。たとえ明日終わるとしても、今日もまた確実に三つの事を行わなければなりません。本当に終わったとしたら、法を正す時期に衆生のためにどれだけの代価を支払ったのか、師に従って帰る資格があるかどうかということを、また自分に聞かなければならないのではありませんか?
「正法十八年春」に気を遣うのはとても危ないことです。実際私たちの地区では同修の中にふわふわして落ち着かない状態がもう出てきているのです。だから、明慧ネットをお借りして、同修の皆さんとこの問題について交流したいと思いました。
2007年10月7日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/4/163851.html)
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