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師を確信することはすべてを成就する根本である

(明慧日本)法を正す時期の大法弟子として、自分をよく修め、邪悪の迫害を打ち破るためには、師への確信(信じる心)が一刻もなければできないのです。法を正すことが最後の時期に入った今は特にそうです。師への確信こそ最大の正念で、すべてをよく行う根本なのです。イエスが法を伝えた当時、「私を信じさえすれば、天国へ行ける」と言ったといわれていますが、それは他でもなく確信のことを言っているのです。

 師を確信することは一つの力、正念正行の源であり、無条件に成し遂げなければならないことです。心を鎮めて法を学ぶことは師を確信(信じる事を)することの根本的な保障で、師父の説法に基づいて自分の言行を照らすことは師を確信することの具体的な表れなのです。師への確信は生命の本性からの金剛不動な信念なのです。真に修める大法弟子なら、師を確信しない人はまずいないという同修がいます。一般的に言えば、確かにそうですが、時によっては、そうでない場合もあります。例えば、関を乗り越えるとき、よくない状態が出てしまったら、自分が大法弟子であるとことを忘れてしまった時、残酷に迫害される中で、「お母さん」と叫んだりする時はみなそうです。我々が法を実証し、衆生を救い済度する過程の中で、いつも具体的な困難に陥ってしまいますが、それも師父を確信するのではなく、自分の観念や様々な自分自身の経験を信じているからです。

 我々は大法弟子として、すでによく分かっていますが、我々を圓満成就まで修めることができるように導いてくださるのは師父であり、新しい宇宙を作り上げ、衆生を本当に救い済度できるのも師父です。このことに対して、他の如何なる生命も皆為す術がありません。師を確信できなければ、すべては水の泡になってしまうに違いありません。

 仏教法門の中で阿弥陀仏を信じる浄土宗では、真心を込めて、佛号を唱えさえすれば、将来、極楽世界へ往生できるのです。これも実はもっとも肝心な問題—確信(信心)することを言っているのです。師への確信なくして法への確信という言い方はただ自分の執着や観念に符合する内容を法から探すことや法を利用して自分の観念や面子を守ることで、それは偽の確信であり、真の修めではありません。労働教養所で邪な悟りをする者も法を確信することを言っています。しかし、彼らは師父を信じないで、法を断片的に曲解し、大法を破壊しているのです。

 大法は師父が伝えてくださったのです。法を確信する前提としては、師父を尊敬し、確信しなければなりません。師父のおっしゃることなら、何でも信じるという同修がいます。そういう信念を持っているからこそ、迫害に反対し、衆生を救い済度する中で着実に大法弟子として行うべきことをやっているのです。それらの不思議なこと、正念正行する表現、迫害される中で如意に神通を使う奇跡、それもみな師への確信があってのことなのです。

 大法弟子は長年の修煉の中で、自分と同修の身に起こったことを通して、既に師を確信することのもたらした威力を十分に証明しました。正念正行する大法弟子ならば、師父はずっと見守ってくださっておられるのです。しかし、魔難に遭うと、師父を忘れ、自分が能力を持っている大法弟子であるということを忘れ、やはり人の方法や経験や一般的な知恵で対処してしまう同修がいます。大法の要求に基づき、神の知恵で対処していません。これこそ師を確信するかしないかの区別であり、人と神の根本的な区別でもあります。

 私たちは既に分かっているのですが、宇宙はみな法によって正されています。人間から最高次元まで、師父は宇宙を法で正すことのすべてを把握されておられるのです。師父は慈悲と威厳をもち、修煉には基準がありとても厳粛なことです。師父への確信がなければ、我々は何もできないし、ひいては旧勢力の按排した道を歩んでしまう可能性があります。高次元では、できる人を選択するという説法を師父が説いておられました。それなら、師父がどんな人を選択されるのでしょうか。それは師父を確信し、迫害を打ち破り、師父の要求されるとおりにやっている人だと思います。それは宇宙未来で必要な、未来の新しい宇宙の基準であり、師父が新しい宇宙の未来のために残す、宇宙の永遠不滅を保証する具体的な表れでもあります。

 今の段階での認識ですが、不足なところがありましたら、ご叱正をお願いいたします。

 2007年10月8日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/4/163790.html