日本明慧
■印刷版   

睡魔に打ち勝ち 有限な時間で衆生を救う


 文/重慶大法弟子

(明慧日本)修煉の道は一つ関を乗り越えては、また一つの関がある。最近、また早起きして煉功する関にあった。以前の魔難と比べると、この関は易しそうだが、乗り越えるには、正念正行があって、やっと法が私たちに対する要求に達する。私は体験を書いてみます。

 以前、全世界大法弟子が一緒に朝6時に正念を発することは私にとって難しかった(仕事をしているため要求も高い)、うまくできなかった日もあった。現在、朝2時間早起きして、煉功することはもっと難しく感じる。私は長い時間をかけてやっと決心して始めた。最初は全身に力がなく、頭が膨らむ感じで、目も開けられないし痛かった。額も腫れて痛みがあった。時には吐きそうな気がした。最もつらいときは、目覚まし時計が1分鳴っても、起きられず、無理して起きてもまた寝てしまった。時にはおきて煉功して、6時に正念を発した後、また寝てしまい、ずっと8時、9時まで寝た(週末は出勤しない)。無理して2日煉功を続けては、また2日連続で休んで、毎日頭がくらくらして、元気がなく学法も集中できなかった、本当に焦った。

 この状態は私を目覚めさせた。私は「根本から人の観念を変える」(未確認)ではないのか? 私は自分を修煉者と自覚したか? 神と思ったか? 常人は寝不足すると我慢できず、修煉者だからこの状態を突破できる。神の道を歩む生命しかできない。一人の修煉者として、常人の考えを変えなければならない。寝不足すると疲れが出るという観念を変えなければならない。大法を修煉するのは超常的なのだから。

 師父は『五行にいず、三界を出る』の中ではっきり説かれた。「身体の細胞はすべてこの高エネルギー物質によって取って代わられます。考えてみてください。その時あなたの身体はまだ五行によって構成されているものと言えるでしょうか? まだこの空間の物質だと言えるのでしょうか? その身体はすでに他の空間から採集した高エネルギー物質によって構成されています。あの徳というものの成分も他の空間にある物質で、われわれのこの空間の時間場の制約を受けません」。

 表面から見ると常人と同じだが、実際は違う。学法を通して、更に認識した。ある程度修煉すると、私たちの身体は佛体になる、この身体は他の空間に入れる、他の空間の多くの身体と一体に溶け込む。そうなると、この身体は自然とこの空間の制約を受けず、常人の理に制約されず、疲れを感じなくなる。煉功の口決のように、「身神合一」になる。よく考えてみると、煉功の口決には深遠な内かんがある。

 私が早起きして煉功してから一つの現象が表われた、夜中に起きて、眠気が覚めないままで煉功しても、頭は休んでいない。昼間のこと、真相を伝えるときの問題、心性の摩擦など頭に浮かんでくる。これは明らかに妨害ではないか? 眠気は魔の表れで、煉功と円満成就を妨害している。師父が言われたように、「あなたは煉功して得道し、多くの借りを踏み倒すつもりですか? 魔はそれでは承知しません。だから修煉させるはずがありません。しかし、これもある次元での出来事に過ぎず、ある時期を過ぎれば、こういう現象の存在は許されなくなります。つまりその債務返済を乗り越えれば、それ以上の邪魔は許されないということです。なぜならわれわれ法輪大法の修煉は、向上が速く、次元の突破も速いからです」(『転法輪』「煉功して魔を招く」)。私は主意識をはっきりさせて、魔の妨害を認識して、それを排斥し否定した。同時に、安逸の執着を取り除き、固い意志で続けると、想像もしなかった変化が出てきた。

 私は寝る前に正念を発して思想業力を取り除き、早起きして集中して煉功音楽を聴き、動作はしっかり師父の言葉に従い、師父が私たちと一緒に煉功されているのだと思った、私たちの横で見守ってくださっていると思った。私は師父の説法を思い出した。「わたしの法身がまわりを囲んで坐り、煉功場の上空には覆いがあり、その上に大きな法輪があって、『大法身』が覆いの上から煉功場を見守っています。その場は、並大抵の場ではなく、普通の練功の場とは違い、修煉の場なのです。功能を持つ多くの人はみな、赤い光に包まれて、一面真っ赤になっている法輪大法のこの場を見たことがあります」(『転法輪』「法輪大法の学習者はいかに功を伝えるか」)。

 全国の大法弟子が一緒に煉功している場はとても壮観だ。師父は全国の大法弟子を連れて最後の円満まで私たちの体を煉っておられる。これはどんなに素晴らしいことか! 最も素晴らしいことだ。

 師父は『二〇〇七年ニューヨーク法会での説法』の中でおっしゃった、「これは良いことと言えます。私はまだ観察しており、最後の効果がどうなのかを見ています 」。これは良いことと言えますと師父はおっしゃった。師父ははっきり言われなかったが、師父の法の中で悟ることができる。我々大法弟子は覚えている、済南講法の時、師父が弟子達に扇子で扇がないように言われた。当時、暑くて、ホールの中には人がぎっしりで、かなり暑かった。扇子で扇ぐのは当然なことだったが、信じて、悟性がある人は扇子で扇がなくなると、すぐ涼しい風を感じたのである。

 いいことを全部明かすと、修めるところがなくなる。悟ればよい、悟る者が得るのである。これも師父を硬く信じるかどうかという根本的な問題だ。いつか円満するとき、決心がつかず、信じているようで信じないと、千万年を経て待ったことが台無しになり、後悔してもやまないことで、最も残念なことになる。

 大法弟子が修煉の道を歩んで、苦しい試練を経て、段々成熟になり、心性が段々高くなり、功も高くなり、身体の変化も大きくなる。このとき、明慧編集部が発表した統一して一緒に煉功する意義は明らかだ:統一煉功し、一緒に昇華するのである。

 もう一つ、もっと重要なのは、私たちが睡眠時間を短縮すれば、さらに多くの時間で三つのことができ、さらに多く時間に、衆生を救うことができる。これは法を正す過程で、最後の段階に近づく一歩だ。これは師父が我々を円満へ導く最もよい按排である。法を正す過程に新しい状況がでて、新しい要求は常人の観念、個人の執着、旧宇宙の理と反する。どうやって克服するか、どうやって修めるかは我々が真剣に考えるべき問題である。

 私達が歩んだすべては師父の私達に対する期待に背くことはできない。「行ない難きも行ないうる」のである。困難があるのは、我々に対する法の要求が高くなったのであり、昇華するのに最もよいことではないだろうか?

 法理がはっきりわかると、私は時間通りに起きて煉功ができ、私の心が鎮まった。だるい眠気がなくなり、額は痛い感じもなくなり、痛さも自然に消えた。全身が煉功音楽に溶け込み、動作が軽くなり、神聖な法光が照らすもとで、昇華した。

 一旦私達の心に衆生を救う願望があると、法を得たばかりの時の精進さ、正法時期の大法弟子の誇り、この万古の機縁を大切にする。師父に対する無限な感激があると、だるい眠気や睡魔が完全に消える。この関は我々の足下にあるのだ。

 この文章を書き終えた時、師父の『米国首都法会での説法』が発表され、法理的にもっとはっきりした。師父はおっしゃった。「これらのことを行う必要がなければ、大法弟子の修煉はすでに終わったのです。ですから、現在皆さんが行なっていることはいずれも衆生のためです」。「前回の説法で、大法弟子個人の圓満成就はすでに問題ではないとお話ししましたが、当時多くの人は理解できなかったかもしれません。実はこの意味です。もちろん、この過程で大法弟子が最後に歩む道は延長されたようです」。「まだ多くの衆生が救い済度されていません。皆さんはまだ限られている時間の中で、もっと大きな威徳を樹立し、最後のときこのことのために後悔しないようにすべきです。ですから、皆さんが更に良く行い、更に素晴らしくなるように期待しています」。

 なぜ我々は睡眠の時間に執着するのか? 我々は本当にこの有限の時間で最大限に衆生を救うべきだ。私たちの先史の誓約を成し遂げる、これは私達個人のためではなく、個人修煉のためではなく、衆生を済度するためである。

 次元の限りがあり、不適切なところは、ご指摘をお願いします。

 2007年10月12日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/8/16/160949.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/8/22/88816.html