日本明慧
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悔しさの背後


 文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)私は長年修煉してきましたが、時には、一種の悔しい感情につられて、心が動じてしまいます。その状況は徐々に弱くなっていますが、まだ存在しています。利益において損をすると、悔しさを感じます。苦労をすると、悔しさを感じます。事をうまくやり遂げなかったら、悔しさを感じます。事の結果が自分の想像と異なると、悔しさを感じます。異なる意見に直面すると、悔しさを感じます。ほかの人に責められると、悔しさを感じます。修煉者は理智的ではっきりと自己意識を持ち、常人の心に連られてはいけないのに、私はどうしてこれほど多くの悔しさを抱いているのでしょうか。悔しさの背後に何が潜んでいるのでしょうか。根底からこのものを区別し、取り除かなくてはならないと思います。

 法を学ぶ中で私は悟りました。悔しさの裏には実は人間の観念があります。たとえば享楽は良いとか、苦を嘗めることは良くないとか、順調であるのが良い、順調でないことは悪いなど、どうであれ、得ると良い、失うと良くない。楽しければ良い、楽しくなければ良くない。褒められると良い、説教されると良くない。事を成すことができれば良い、できなければ良くない等々。また、自分を変えたくない心があり、いつも自分の「本領」に応じて、自分のやるべきことをやるのがふさわしいと思って、法の基準をもって自分を量り、自我を放下し、大法と同化していません。つまり私のため、自我のための心そのものです。

 もう一度師父の「米国中部地区ミネソタ州法会へ」を学び、非常に恥ずかしく感じました。師父は繰り返し、私たちに「大法弟子の修煉は、個人の圓満成就のためだけではありません。大法弟子として三つのことをしっかり行い、衆生を救い済度することは大法弟子が必ず行わなければならないことです。」とおっしゃいました。現在、法輪功修煉者たちは皆全力を尽くして衆生を救い済度しており、正念をもって迫害を終わらせるように努力しています。時間は極めて切迫つまっており、悔しく感じる暇さえないのではありませんか。より多く法を学び、より良く法を学べば、精進することによって人心が自ずとなくなるのです。その代わりに、慈悲の心が生じます。これは真の神の状態です。私はこのように考えています。

 2007年10月14日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/10/11/164287.html