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雨垂れ石をうがつ


 文/ドイツ大法弟子

(明慧日本)2005年9月ハンブルク文化祭の舞踊隊の出演に参加するため、ある同修の家に泊まりました。彼女は大法弟子が作ったホームページの管理を行っています。その時、今、校正役がいないが、私にそれをやってもらいたいと言いました。それを聞いて、私はとても意外に思い、自分はその仕事に向いているかどうかも分からず、心細かったのです。私は2005年1月にコンピューターを買ったばかりで、まだ使いこなしていないし、もっと大変なのは、私はそもそもコンピューターに好感を持っていなかったのです。

 このホ—ムページが如何に重要であるかを彼女は教えてくれました。わが身に置き換えて、自分が舞踊活動に参加するときの感じを思うと、とても彼女の気持ちが理解できます。しかし、その時、そのホームページは私にとってもとても重要なことであることをまだ意識しませんでした。

 文化祭の舞踊活動および2005年のパリでの新年祝賀祭で踊りを踊ることはとても重要な仕事であるし、私の才能を生かすいいチャンスでもあります。私はこの形を通して衆生を救い済度することも出来ます。今まで、私はずっといろいろな場で踊りを通して、大法のすばらしさを世の人々に伝えてきました。

 踊りをすると、拍手と歓声を受けて、とても素晴らしいと褒められます。それに対して、毎日モニターを見ながら、黙々と原稿を校正するなんて、見る人もいなければ、賞賛の声も聞こえません。しかし、これは真相を伝えることにとってとても重要な仕事で、長期に続けなければならない仕事なのです。例えば、もし今日原稿の校正が出来上がっていなければ、明日のホームページに掲載する文章がなくなります。

 私は法輪功を修煉する前に、それぞれ違う花屋さんで仕事をしてきました。高校を卒業してから、ウエイトレス、店員、掃除婦、電話交換手などたくさんの仕事に従事しました。その時は移り気で、単調な仕事や繰り返しの仕事はとてもこなせず、頻繁に仕事を変えないと、つまらないと思いました。なぜならば、やる気がなくなるからです。だから、私には一つの仕事が長く続かないという観念が形成されました。大法弟子の作ったホームページの仕事に参与してから、この仕事は土、日も含め、毎日続けてやらなければならないと協調者に告げられたとき、私の生活はこれに縛られることになるので、とても出来ないと思いました。しかし、一方で、この仕事の重要性もよくわかり、やってみたいとも思いました。最初のころ、協調者に一日に一編しか校正できないと言いました。それでもとても大変で、何時間もかかるのです。というのは、いつも集中することができず、文章への正確な理解も思想業力によって妨害されたからです。こんな状態は何カ月も続きました。毎晩コンピューターの前に座ってこの仕事をするなんて、なんと辛いことだと思っていました。時には自分が常人の仕事をしているようにも思っていました。

 2005年12月、パリでの新年祝賀祭に参加するため、私はベルリンのダンスチームと一緒に下稽古する時、ある同修宅に泊まりました。下稽古した後、校正の仕事をしなければならないので、私はいつもコンピューターを持っていました。法をよく学ばなかったし、煉功もよく続けていなかったから、一日の下稽古が終わると、いつも疲れています。しかし、一緒に稽古している同修の中にホームページの仕事をやっている同修もいますが、彼女らが下稽古をした後も一生懸命に頑張っている様子を見ると、私はいつも無理に元気を出して、コンピューターの前に座ったのです。

 それから、外出するときに、編集の仕事をして週末を過ごすのも日常茶飯事です。

 2006年の夏、ある学習者に家に泊まったとき、プレッシャーがあまりにも大きく感じたため、私はもう我慢できず、泣いてしまいました。編集は特にそうですが、自分はどうしてもうまくやれないと思っていました。しかし、後で冷静になった時、急に、私は修煉し始めてから歩んできた一歩一歩が目の前に浮かび、自分はもう修煉する前とどれほど違ってきたかはっきり分かるようになりました。他のプロジェクトはともかく、この仕事に関しては毎日やってもう1年近くも続けてきたと気が付くと、自分でも不思議に思いました。その瞬間、どれほど殊勝な修煉のチャンスを師父に与えていただいたのかが分かるようになりました。最初自分がとてもできないと思っていた法を実証する仕事を師父によって与えていただいたのです。それは私にとって難しい仕事なのですが、私は自分の進歩を見ました。それに、大法修煉の中では我々には本当に出来ないことはないと分かるようになりました。

 「街を歩いていて、不意に誰かに蹴られた時、まわりに知っている人がいなければ我慢できる」と言う人がいます。それではまだ不十分だ、とわたしは言いたいのです。あなたが最も面子を失いたくない人の前で、誰かがあなたに平手打ちを食らわして、恥をかかすようなことが将来起きるかも知れません。果してあなたはそれにどう対処しますか。果して耐えられるかどうか。一応は耐えられたとしても、内心では落ちつかないようでしたら、それでも駄目です。(『転法輪』)

 今年のライプツィッヒでのある活動をする間、ある学習者が探し物をしている時、私はちょうどそばにいて、何気なく彼女を見たら、彼女の着ているレーンコートに我々のホームページが印刷されているのを目にしました。その時、自分とこのウェブサイトとの縁を感じ取り、誇りに感じました。その中に私の努力があるからです。それから、元々もっとよくできるはずなのに、うまくやれなかったことや、これからやらなければならないことがまだいっぱいあるとも思えるようになりました。

 踊りはいつも何日間かで終わるものです。その間、多くの世の人々の前に大法弟子の姿形を表すことができ、勿論とても素晴らしいことです、しかし、私が言いたいのは、衆生を救い済度するために、倦まず弛まずやり通すこともとても重要なのです。もし世の人々は毎日、我々のホームページを見ているならば(それは何百万人もいるでしょう)、毎日真相を聞くことになるのではありませんか。「雨垂れ石をうがつ」とよく言われていますが、こういう意味では、我々のウェブサイトは必要不可欠なものだと思っています。これもつい1年前になって私が初めて気がついたことです。

 私たちの行ったすべて、踊りや太鼓隊、楽器出演であろうが、撮影、美術、作文であろうが、文章の校正であろうが、皆衆生を救い済度するためであり、法を実証するためであると私は思っています。だから、如何なるプロジェクトもとても重要で、私たちは厳粛で真剣に対処しなければなりません。

 この文章を書く途中でまた悟ったのですが、師父はたくさんの執着心を取り除くチャンスと、衆生を救い済度するチャンスを按排してくださいました。それから、ここ何カ月、明慧ネットに掲載された交流文章はそれぞれの角度から次のことに触れていますが、つまりこの発生すべきではない迫害が続いてはならず、我々は一つの全体としてそれを徹底的に否定し、終わらせなければなりません。

 師父があらゆる衆生のためになさったすべてに対して、真心からお礼を申し上げます。

 (2007年ヨーロッパ法会発言原稿)

 2007年10月16日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/2/163714.html