日本明慧
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『法輪大法—オーストラリアの学習者に対して法を説く』を学んでからの感想


 文/中国大陸大法弟子 飛虹

(明慧日本)私は1998年の年末に法を得ました。直接師父にお会いしたことはありません。しかし、今までの経験から、他の同修のことは分かりませんが、少なくとも師父は私にずっと厳しく要求しておられると思っています。昨日『法輪大法—オーストラリアの学習者に対して法を説く』のビデオをいただいてから、恭しく繰り返し2回拝見しましたが、とても感慨深かったのです。

 何年か前に、邪悪の迫害がまだはびこっていた頃のことでしたが、私は資料点で真相資料を作っていました。毎日、法の学習、正念を発すること以外の時間はすべて真相資料を作ることに使っていました。毎日部屋に閉じこもって、同じことを繰り返すので、人心が出てきたときには、とてもつらく思いました。ある時、目の前に順番どおり並べて、装丁しようとしている真相資料を見て、こんなにたくさんの資料をいつになったら整理し終えるのだろうか? 修煉とは本当につらいものだ、いっそのこと一休みしようかと思いました。そこで、ベッドにもたれて同修のMP3をつけて法を学ぼうとしました。しかし、思いがけないことに、スイッチをいれるや否や、師父の『広州での説法』の中のとても厳しいお話が耳に入りました。「蜂蜜を食べるようなことだと思いますか、揺り籠にいるような感じだと思いますか。修煉はほかならぬ苦を嘗める問題です。…」。

 その時、それを聞いてどれだけ私を震撼させたか分かりません。私は暫くの間、師父のこの言葉を聞いて呆然としていました。師父はなんでもご存知なのです。たとえちょっとした考えでも、ご存知なのです。またそのような険悪な環境では、いかなる怠惰と緩みも邪悪が隙に付け入る口実になるという師父のご教戒もわかるようになりました。

 その後の何年間、私は苦に耐えられず、怠けたり尻込みしたりしようとする度に、いつも師父のこの教えを思い出し、この言葉を以って自分を励ましました。これこそ自分が重荷を担いながらあれほどはこびこっていた迫害の中を抜け出せた原動力と言えるでしょう。私は心の中で師父の厳しさに対して、ずっと畏敬を感じ感激しています。

 再び師父の『法輪大法—オーストラリアの学習者に対して法を説く』の中での諄々とした説教を拝聴して、佛恩をつくづく感じました。師父のなさったすべては皆われわれのため、宇宙の衆生のためなのです。たとえ棒喝でも同じように我々のためなのです。

 宇宙衆生の未来のための、師父の慈悲なる救い済度を無にしないように、私たちに放下できないものがあるでしょうか? 放下しなくていいのでしょうか? 私たちは本当に円満成就まで修めなくても平気なのでしょうか?

 同修たちの慈悲なる指摘をお願いします。合掌。

 2007年10月18日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/15/164493.html