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錯覚を捨て、自分の根本的な執着を放下する


 文/中国大陸の学習者

(明慧日本)

 一、大法の修煉を精神的なよりどころと見なしてはいけない

 常人はよく宗教修煉を信仰や精神的なよりどころと見なしていますが、私はこういうことに気が付きました。つまり、自分は落ち込んでいる時や差し迫った危険にあった時に、よく気を尖らせて、何でも大法に基づいて考え、どんなことがあっても執着を放下するよう自分に要求します。しかし、気持ちのいい時や周りの環境が緩和した時、大法を心の第一位に位置づけなくなり、自分への要求も緩めてしまいます。なぜこういう現象があるのか、自分にもよく分かりませんでした。

 しかし、最近分かったのですが、それは大法を精神的なよりどころ、気持ちを調整する道具と見なしていたからです。少なくとも無意識的にそう見なしていると思います。常人社会の中で苦痛にあった時、法理上では失うものが無ければ得るものもないため、実は自分は損をしていないと思って、自分を慰めています。それは他でもなく、まだ放下したくないものがあるから、心身ともに修煉に取り組むことなく、「なんといっても、自分はまだ修煉しているから、師父も慈悲深いし、自分を見捨てることはない」と心の中で思っていたのです。

 二、自分の根本的な執着を放下する

 師父は「圓満成就に向かって」の中で次のようにおっしゃいました。「人間の観念から大法の中に人生のあこがれと願望を見つけ、こうした執着の人心にかられて、大法の修煉を始めた学習者も少なくないのである。」

 自分が法を得たばかりのころを振り返ってみて、いったい自分はなんのために修煉したのでしょうか。それは自分の美しい未来、さらによい生活を追求し、神になると幸せを享受できると思い、形神全滅を恐れるからです。つまり、自分は圓満成就したいと思ったからです。しかし、それも執着心、自分のためにという私心ではないでしょうか。ただ幸福を追求する方式を変えただけではないでしょうか。こういう修煉も常人の生活方式を変えたに過ぎません。こういう考え方を持ちながら、自分はまだ大法弟子と言えるのでしょうか。

 三、この現象の根本的な原因は、幼い時から形成された錯覚にある

 人間はこの世に来てから、この常人社会に汚染されたため、執着心や利己心を美しいもののように捉えてしまいました。人間の執着心はタバコを吸うと癖になることと同じように、一種の錯覚なのです。しかし、執着心はタバコを吸うこととはまた違いますが、タバコを吸うことだったら、吸い始めると止めるのが難しいとは言うものの、やはりタバコを吸わないのがどういう感じであるかは分かっているのです。それに対し、執着心だったら、周りの人が皆タバコを吸っているし、それに、生まれてからもうタバコを吸い始めているから、タバコを吸うことを体の一部分だと思い込んで、人間がタバコを吸わないとどんな感じであるか分からないというようなものです。人間が生まれてから、すでにこの世の名誉、利益、情けに浸っていて、またそれにより、小さい時からいろいろな執着心を形成し、だんだんと癖になり、なかなかそこから抜け出せないのです。修煉してからでさえも、またいつも「執着心を放下してしまったら、生活がなんとつまらないだろう」という感じがするのです。しかし、我々の子供時代のことを考えてみましょう。それも楽しく生活していたのではありませんか。だから、このような錯覚に苦しめられるなんて、一体何の意味があるのでしょうか。

 自分の執着心が満足できない時には苦しく思い、満足する時には幸せに思いますが、実は本当の幸せではありません。世の中のいわゆる美しさは皆、幻覚であると認識すれば、我々はよりよく精進できると思います。我々は「修煉は自分の幸せのため」、「修煉は自分を圓満成就させるため」という根本的な執着を放下しなければなりません。修煉の目的は無条件に他人のために考え、宇宙の特性に同化するところにあり、三つのことを行うのが衆生の幸せのためであるということを、我々ははっきり認識しなければならないと思います。

 個人の会得ですが、不当なところがありましたら、慈悲なるご叱正をお願いします。

 2007年10月21日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/16/164514.html