日本明慧
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自分の観念と人心を放任しないように気をつけよう

(明慧日本)ある日、ある同修とばったりと出会いました。彼女がやつれたように見えたので、「どうしたの?」と聞いてみたら、もう一人の同修とトラブルの真っ只中だと教えてくれました。それから、彼女は事情の経緯を説明しましたが、話しながら絶えず内に向けて探しているとは言え、相手の彼女への中傷があまりにもひどく、やはり話の中に相手に対する恨みの気持ちが感じられます。彼女の話を詳しく聞いてから、やはり相手の同修の言行が確かにひど過ぎて、この同修を傷つけたと私は思いました。

 彼女と交流する時に、私も自分の認識を述べながら、師父がご教示されたように「二人の間にトラブルがあって、第三者がそれを見たら、この第三者まで自分のどこに間違いがあるのか、なぜ私がこれを見たのかと考えるべきです。」(「米国東部法会での説法」)自分にもどこか問題があるかどうかと探しました。しかし、相手の同修のことを私はよく知っていて、わりと心性の高い同修だと思っていたので、なぜこんなにもこの同修を傷つけたのかと不思議に思っていました。

 都合よく数日後、別の場所でそのトラブルの元であるもう片方の同修に出会いました。彼も何気なくことの経緯を話してくれました。彼の話を聞いてから、私はますます迷ってしまいました。同じことなのに、彼ら二人の叙述と理解の食い違いがあまりにもひど過ぎて、もし彼らの修煉状態が分からなければ、常人のようにわざと大げさに言ったり嘘をついたりしているのではないかと思うほどでした。しかし、彼ら二人のことをよく知っているので、たとえトラブルの中で不満があっても、やはり必ず自分の立場で「事実そのまま」に述べるに違いないと私は分かっているのです。

 十数年修煉してきて、私は問題がある事柄に会うたびに判事になりたいという心をすでに取り除き、もう以前のように事柄の中に陥って正誤を判断することをしなくなりました。トラブルが生じた以上、自分の向上の要素も皆その中に含まれていて、常人の基準で正誤を判断してはいけないという法理を分かっているのです。このことを通して、私は自分の弱いものに味方するという心理を見つけました。つまり、甲同修は自分の不満を訴える時、相手はなぜこんなにひどいのかと思ってしまい、乙同修は甲同修の居丈高な話し振りを私に話して聞かせ、こんな口ぶりで同修と話していいのかと思ってしまうのです。

 その後、この件を戒めにして、善を修めることを重視し、同修を傷つけないように気をつけなければならないと自分を戒めていました。このことはこれで終わったと思いました。

 それからしばらく経って、ある日、ある同修とお喋りをしながら何かをやっている時でしたが、私たちの買ってきた機械の部品をどのぐらい使ってきたかについて話していた時、私がその機械を購入した日付けを忘れたと話すと、「忘れたの? その日戻ってきてから、あの不愉快なことが起こったのです。話し方がとてもひどくて、あの時のあなたの態度には本当にがっかりです。落ち着かせようと思ったから、私は先ずその場を立ち去ったのです。私たちが部品を買ってきたのはその日です。」と注意してくれました。

 それを聞いた私はすっかりあっけに取られてしまい、ぽかんと彼を見つめていました。しかし、私がまだ思い出していないと思ったのか、彼はまたその日のことをもう一回繰り返しました。私は黙っていましたが、実は、心の中はもう荒れ狂った海のようでした。「何で彼は事実をそのまま言わなかったのだろうか。そのことで私はどれだけ傷つけられたのか知っているのだろうか。私はそれから随分経ってから、やっと落ち着けるようになったのに。」と思いました。実はその後、自分の良くない行為で同修をどれほど傷つけたかを知るために、その事でずっと彼と交流したいと思っていたのです。しかし、後で自分の嫉妬心を見つけ、自分も責任があると思い、段々落ち着いてきました。それに、そのことはもう過ぎ去った事だから、あえて言い出す必要はないと思いました。しかし、その事で彼が傷つけられていたなんて思ってもみませんでした、話が全然違うのではありませんか。

 後で段々落ち着いてから、当時自分の態度が同修をずいぶん傷付けたと思うと、後ろめたい気持ちに駆られました。

 実はその日のトラブルの後、私はずっと自分がひどく傷つけられたのに、不平不満、恨み、悔しいという心を放下し、自分自身その関を乗り越えて、度量を広め、境界を昇華し、たくさんの心を取り除いたとように思っていたのです。相手が傷つけられたなんて考えもしませんでした。

 その時、先ほどの二人の同修のことを思い出しました。なぜ同じ経緯なのに、それぞれの叙述にあれほどの食い違いがあるのかが急に分かるようになりました。もしもその前に、私は自分の立場に立って傷つけられたという気持ちを持って、自分がその同修との間で起こったトラブルを他の同修に述べるとしたら、それはきっと傷つけられた心の訴えとなるに違いありません。その同修の言い方だと、その日私に傷つけられてから、「気持ちを落ち着かせるように、まずその場を立ち去った」(とても寛容に聞こえるようで私にとっては悲しくてどうしようもないが)という事なのですが、私の方の言い分だと、それとはちょうど正反対で、彼はやけになって、別れの挨拶もせず、ドアを思いっきり閉めて出て行った。彼は気が小さいし、態度も乱暴だ、というような話になるのです。

 全く同じ事柄でも、傷つけられたと言う気持ちを抱いてそれぞれ違う立場に立って述べると、きっと雲泥の差があるに違いありません。

 その瞬間、自分の長い間持っていた観念、深いところに潜んでいる「私(し)」をはっきり意識するようになり、本当に脱皮したように感じました。長い間、私はずっと自分の観念の中で執着を取り除き、自分の感じや気分の中で「善」を修めていました。トラブルの中でいつも自分のことを傷つけられやすい、無辜な弱いものと見なし、相手を許容し、許す前提の下で、自分の嫉妬心や闘争心、他人を傷つける心を探しているのです。そのため、いつも自分のことを偉く、とても寛容だと思っていました。

 しかし、自分は本当に相手の立場に立って相手を理解し、トラブルのため同修を傷付けたりした事など思いもよりませんでした。だから、自分の私(し)を根元からむしり取って、完全に相手の立場に立ち、無条件に内に向けて自分の問題を探さなければならないと思いました。

 場合によって、自分が傷つけられたというはっきりとした感じがしないこともあります。それでも、「やはり相手には問題があるが許してあげよう」という心理状態の下で、自分の執着や問題を探し、執着心を取り除いているのです。

 師父は「2004年シカゴ法会での説法」の中で、すでにこの問題を指摘されました。「耳に痛い話を聞きたくなく、自分を喜ばせることだけを聞きたがっており、私を刺激してはいけないと思っています。皆さん考えてみてください、常人はほかでもなく常人の中でこれらの喜びを楽しんでいるのではありませんか? 自分へのほめ言葉を楽しんでいるのではありませんか? 修煉者として、あなたは常人のこれらのことをほしいと思っているのでしょうか? 皆さんに教えますが、修煉者としてあなたが常人の中にいるので、耳に痛い話を聞かなければならず、それらの話を聞き入れるようにしなければなりません。(拍手) さもなければ、この最も基本的な修煉の問題さえあなたは解決していないのに、それでもまだ自分は大法弟子と言っています。」

 またこの観念のため、何かの問題に遭うたびに、私はいつも自分の利益と損得の立場で事件の経緯を当てたり憶測したりするのであって、別に相手を理解したり思いやったり、相手のよい所を考えたりするのではないということも気づきました。

 協調責任者をするとき、いつも同修から助言やフィードバックなどの内容のメールをもらっていました。ある時、ある同修から皆が論争していることに対して自分の考えを書いたメールをもらいました。私はさっと目を通したら、その中には数箇所の言葉遣いがとても激しいと感じられる文がありました。それで、私の心が動揺してしまいました。私は直ぐキーボードを打ちながら返信しようとしましたが、返信を書いているうちに、その言葉遣いの激しいところを引用して、相手のいけないところを指摘しようと思ったら、二、三回チェックしても、なかなかその言葉を見付けられませんでした。そのうち、私も段々落ち着いてきて、これは修煉者のあるべき状態なのか、何で一通の手紙だけで心がこんなにも動揺したのだろうか。一体どの心が動じて、相手の言葉遣いを激しいと感じたのだろうかと考えるようになりました。

 実は、それは自分に強い執着心があるので、その執着心に駆られて、自分が勝手に想像して、あのような感じがしたのです。またこういうことから、なぜトラブルが生じた時、双方の当事者とも自分が傷つけられた、相手が自分を傷つけていると感じるのかも分かるようになりました。師父は「2002年度ボストン法会での説法」の中でおっしゃいましたが、「ですから、時には強い常人の心をもって一途に思い込んで、なかなか抜け出せず、考えれば考えるほど執着し、考えれば考えるほど心が沸き立ち、考えれば考えるほど魔があなたを利用しています。皆さんが冷静ではない時、皆さんに教えますが、その時即ち魔があなたを利用しているのです。どのくらい長く修煉したにしても、大法弟子の中でいくら名声があるにしても、気をつけなければきっとそうなります。」

 今、私は同修からのメールを読む時、もし心が動じたり、あまりいい気分になれなかったりした時、いつもすぐに急いで返信を書くのではなく、まず自分のどんな心が動じたのかと内に向けて探し、それらの観念や執着心を見つけ出し、正念で取り除こうとします。そうしてから、しばらく経って、またそのメールをもう一度読むと、前に読んだ感じと全然違って、なるほどと思い、別の角度で自分の思惟を広げ、自分の不足を補うというような感じになれるのです。

 そして、私が他の同修とトラブルを起こした時も同じなのですが、いつも相手の正しくないところを掴んで放そうとせず、自分の正しいところを強調し、それに自分のいわゆる傷付けられたという観念を放任させて、あれこれと当てはめたり想像したりして、事態をもっと複雑にさせるのです。

 十数年修煉してきて、確かに昔と比べて、考え方がずっと清らかになりました。また清らかな心理状態の下で、よく相手の本当の考えを感じられるようになりました。しかし、自分をうまく把握できてない時、特に自己中心の意識が強い時には、やはり人の観念により形成した憶測がいつも作用してしまうのです。だから、普段から自分の一つの閃きや一つの考えをよく注意し、正しい法理を持って対処して、自分の観念や人心の放任により生じたでたらめな憶測や想像に惑わせられないようにしなければならないと思います。

 2007年10月23日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/11/164255.html