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内心から法を認識し、この迫害を終わらせる


 文/中国吉林市大法弟子

(明慧日本)高い次元での修煉では、それは選択であるという法理を師父が説かれました。宇宙が崩壊しようとする瀬戸際に、師父がこの世に降りて来られました。師父の要求されたもの、選択されたものは皆最も正しくてすばらしいのです。「法を正すことは必ず成功し、大法弟子も必ず成功します」(『各地での説法五』、『2004年米国西部法会での説法』)。我々大法弟子は師父に従って法を正し、衆生を救い済度することを選択しました。大法が十何年伝わってきて、既に大法弟子の心の中に深く根を下ろしました。しかし、旧勢力の按排したこの迫害ははやり発生してしまいました。

 旧勢力はそれらのものを按排し、大法弟子が何千年も骨の髄まで染み込むようにして形成された人間の理を変えさせることを口実に、大法弟子に一層一層の巨大な関を設けて、大法弟子を試練しましたが、とどのつまりは、それら自分自身を守ろうとすること以外にありません。我々は法を正す時期の大法弟子です。師父の按排された道しか歩まず、旧勢力及びそれらが大法弟子に按排した全てを全面的に否定しなければなりません。

 もし大法弟子の心が大法で満ちているとすれば、それは光り輝く神であるもので、旧勢力はあえて迫害する度胸があるのでしょうか。大法弟子は一つの全体で、それぞれの大法弟子は皆大法の中の一粒子なのです。だから、法を良く学ぶことは全面的に旧勢力を否定することができるかどうか、正念正行ができるかどうかの根本であり、もっとも肝要なことです。もしそれをやり遂げれば、この迫害を終わらせることができるのです。

 それでは、どのようにすべきでしょうか。私が思うには、先ず師と法を信じなければなりません。ただそれは口先での確信ではなく、実際の行動に移らなければなりません。師父は繰り返し法を学ぶこと、いくら忙しくても落ち着いて法を学ばなければならないと強調しておられます。しかし、一部の大法弟子は毎日法を学ぶことを続けているのに、心が落ち着かず、法を学ぶ時にでたらめに妄想していて、まだ内心からこのことを重視していません。忙しくなると、法の学習を保障できなくなることもあります。例えば、日ごろいろいろなことで忙しく、夜になると、もう疲れたし、こんな時間になったから、寝てしまおうかと思ったり、仕事をしながら法を聞いたり、更に法を学ぶ時に余談をしたりしている現象があります。高い次元の生命がひざまずいて法を学んでいますが、我々は足を組むどころか、端座せずに学ぶこともあります。また日ごろ大法の書籍を勝手にどこにでも置くとか、字の訂正をする時に、貼り間違えたりして、書籍を汚くしてしまうこともあります。何か問題にあった場合には、法の要求が分かっているのに、目の前にある利益のため、そのように行わないこともあります。これらの行為は師と法を信じると言えるのでしょうか。

 師父を確信すれば、師父が手伝ってくださり、私たちのことを弟子と見なされるのであって、私たちもこれによって初めて円満成就まで修められるのです。修煉を始める時、師と法を確信したからこそ、師父は体を浄化してくださり、全ての不治の病や頑固な病気も消えてしまって、大法の不思議さがこれによって現れてくるのです。

 二つ目は内に向けて探すことです。私は96年に大法を得たのですが、『転法輪』を2回清書し、1回暗証して、通読に関してはもう数え切れないほどやりました。しかし、やはり法理の現われが少ないと感じています。その原因は心が落ち着かないところにあるのです。法を手にすると、心の中で海が荒れたように妄想して、よく眠ったりもしました。「ここまで、煉功しても功が伸びない二つの原因についてお話ししました。高次元の法が分からないために修煉ができないことと、内へ向かって修煉せず、心性を修煉しないので、功が伸びないのです。この二つが原因です」(『転法輪』)。何かに遭う度に、表面上の正誤に関わらず、内に向けて探すことを工夫すれば、本当に高められるのです。

 何も求めず自ずと得るのです。表面上私が大法を学ぶのはできるだけ早く大法に同化し、自分を向上させようとするように見えますが、裏には自分が解脱したい、圓満したいという心が潜んでいるのです。何かトラフルがあったら、自分の考えに符合している部分だけを学び、自分の考えが正しいという証拠を探そうとして、更には相手を説得するために法を学んでいるのです。それから、私は殆ど毎日4時間あまり法を学んでいますが、ただ、数量の比べ合いという心も潜んでいます。例えば、よく他の同修に毎日法をどのくらい学んでいるとか、どのくらい暗証したとか言うことを聞いています。この自己顕示する心は随分長く経ってからやっと見つけたのです。

 大法は新しい宇宙の全てを作り上げています。師父は我々のために既に全てを用意してくださり、後は我々の行い次第です。師父は今後イエスが磔にされたようなことはないという法理を教えてくださいましたが、それはつまり、大法弟子が衆生を救い済度する時から、衆生を救い済度する神が迫害されることは許されないことを意味するのではないかと思っています。長年来、我々はずっと迫害の中で迫害に反対していますが、それは他ならぬ、法をよく学ばないことから無意識にそれらとそれらの按排を認めてしまったからです。

 我々は師父の要求を選択するものです。もし一つの閃きや一つの思いを皆大法の要求するようににやり遂げれば、迫害はまだ存在できるのでしょうか。

 次元に限られた認識ですが、不足がありましたら、ご指摘をお願いします。

 2007年10月24日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/19/164798.html