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『法輪大法—オーストラリアの学習者に対して法を説く』から師と法を尊敬することについて考える


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)私は『法輪大法—オーストラリアの学習者に対して法を説く』を学ぶ時、たくさんの学習者が師父に質問する時に、質問がまだ終わらないうちに、師父は分かった、もう座りなさいと何度合図されても、やはり最後まで話し通そうとするのを見ました。しかし、師父の教示されたことを聞くと、実は質問の途中、ひいては口を開けると、師父はもう質問の内容が分かられたように感じました。そこから私が思ったのですが、これはやはり師と法を確信するか否か、悟れるかどうかの問題ではありませんか。

 常人社会での礼儀から見れば、それはたいしたことではないように見えますが、私たちはもう常人ではなく、偉大な神になろうとする修煉者であり、師父のおっしゃる通りにしなければなりません。そこからは師と法を尊敬する態度も表れると思っています。

 師父に止められても、やはり話そうとする学習者を見て、それは師父を尊敬していないのではないかと思い、私はとても心苦しく感じました。もし普通の常人なら、それはさておき、自分のことを大法の中で修煉している弟子と見なせば、これは間違いと言えるでしょう。それに、それも大法を確信するかどうか、悟れるかどうかという問題に関わっていると思います。

 個人の認識ですが、師父が口を開いて説法されると、もう五体投地の気持ちで聞かなければなりません。我々は今日のような洪大な仏恩に恵まれ、師父の慈悲なる説法を聴くことができることは、これはもう神の人間に対する最大の恵みと慈悲なのです。師父が直接我々に対して説法されるご縁を大事にしなければなりません。

 私は大陸の講習会で受講したことのある古い学習者です。当時、師父が説法される時、跪いて聞きたいという気持ちでした。それは師父から私へのこの上ない恵みと思ったからです。師父のお言葉で私の疑惑を解くたびに、いつも直ぐ師父に対して合掌していました。常人の状態に合わせるためには、ぬかずくことができないのです。その時は天国で説法を聞くような気持ちで、厳かさと殊勝さをよく感じました。天目の開いた同修は他の空間で神は皆跪いて聞いていると教えてくれたこともあります。だから、この世で師父に従い、法を正す大法弟子としては、この万古のチャンスを大事にし、師と法を尊敬することに気をつけましょう。

 2007年10月24日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/20/164844.html