■日本明慧 http://jp.minghui.org/2007/10/25/mh264494.html 



大法弟子もお互いに理解しあうべきである

(明慧日本)同修の「迫害を責めるのか、或いは、迫害に反対する者の揚げ足を取るのか」という文章を読んで、もっともだと思います。つまり、たくさんの人がこのような考えを持っており、更に大法弟子でさえもこの考えを持っているからです。

 例えば、常人が他の大法弟子を誤解しているとき、大体はその大法弟子は本当にそんなに悪く、極端に走っているのではなく、まさしくその常人自身が大法を誤解しており、あるいは邪党の虚言を信じ込んで大法弟子を見たからです。だから、ほかの大法弟子はこの常人に対して、その弟子の代わりに善意を持って説明したり、真相を伝えたりして圓容すべきではないでしょうか? しかし、多くの場合、我々が常人のそういう話を聞くと、他の大法弟子の過失を圓容するどころか、かえってその大法弟子を責めてしまいました。しかし、このようにすれば、往々にして、その常人はますます乗り気になって、自分の考えが正しいと信じ込んでしまうのです。それは、その人を救うことになるのでしょうか?

 例えば、明慧ネットにこの内容の文章が載っています。つまり、中国大陸の大法弟子が海外から帰国した常人に真相を伝える時、その常人は「私はある大法弟子を知っていますが、彼はよく休暇を取って法会に出たり、あっちこっちを回ったりしています」と言って、大法を誤解しているのです。彼に真相を伝えようとする学習者もその大法弟子は本当に良く行っていないと思い、機嫌を損ね、真相をうまく伝えられなくなりました。

 では、大法弟子が休暇を取って活動に参加することについて考えてみましょう。それは一体どこがよくないのでしょうか? まず、たくさんの活動は週末に行われ、大法弟子は自分の休みを犠牲にして、迫害に反対し、人を救っています。平日に休暇を取ったとしても、それも自分の給料が控除されることになり、上司の許可をもらって初めて行くことができるのです。常人は週末を娯楽に使い、平日を金儲けに使っているのに対して、大法弟子が法を実証するために、堂々と休暇を取るのは、どこが間違っているのでしょうか?

 それに、たくさんの大法弟子は家族がまだ修煉していないため、いろいろな困難を克服して初めて活動に参加できるのです。家に帰ってからも、また家族に真相を伝えたり、家庭を圓容するように家事をしたり、家族につき合ったりして、本当に苦しいのです。

 大法弟子は交通費や宿泊代にすべて自分のお金を使って、風雨に晒されながらもいろいろな活動に参加するのはなぜでしょうか? それは世の人々に大法の素晴らしさを知らせ、迫害に反対するためではありませんか? 一方では、社会の各階層と接触して、しっかりと真相を伝え、もう一方では大型パレードなどを通して、大法の洪大な勢いを世の人々に見せ、中共の邪悪を震わせています。例えば、中共が何か悪行を働くと、大法弟子はすぐ各地の中共領事館で抗議を行っています。さもなければ、中共は更に憚ることなく悪事を働くのではありませんか?

 大法弟子のこのような行動が極端に走っていると思う修煉者はこの点において、常人の考えと同じなのではないでしょうか? 最大限に常人社会に符合して修煉するものですが、「修煉」することをくれぐれも忘れないでほしいのです。常人と同じであれば、まだ修煉者と言えるのでしょうか?

 一歩退いて、たとえ他の大法弟子が本当に極端に走り、常軌を逸して、常人に良くない印象を与えたとしても、我々はその常人に大法とは一体どんなものかを説明し、真相を伝え、障害を解くべきで、別に極端に走った学習者に不満を持ち、それによりうまく真相を伝えられないようではいけません。もしこのような状況であれば、我々も内に向けて自分を探さなければならないのではありませんか? ひたすら他人を責めても、人を救えないし、何の役にも立たないのです。だから、大法弟子は法に則って対処し、大法を守り、たっぷりとした正念を持って、常人の言葉で心を動かされることのないようにすべきだと思います。

  ここまで書いて、私も他の大法弟子の不足を見て、目障りに思う心もあることに気づきました。だから、この心を取り除かなければならないと思っています。

 2007年10月25日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/22/164978.html

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