日本明慧
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同修に善意を持って接しよう


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)ある日、私は寮に戻って、あたかも自分が正しい基点に立って他人の過ちを指摘しているかのように、ある同修が他の同修に対して如何に善意を持っていないかと不満を言いました。すると、真相資料を作っている同修は手にしているDVDを置いて、私の向かい側のベッドに座り、静かに私の愚痴を聞いていました。私は不意に彼女をチラッと見ましたが、彼女は私に相槌を打つこともなく、責めることもなく、優しく私を見つめていたのです。

 しかし、その瞬間、私は法を正す修煉者の持っている善を感じ取りました。それは常人社会の情けに浸ることも世間の執着に駆られることもなく、大法に符合する動じない善であり、非常に慈悲深いのです。私は自分が理解され、包容され、自分の話を傾聴されたように感じていました。それに対し、私の愚痴や不満は皆大法から背離したもので、間違っていると直ぐ分かり、私の修煉中の不足はそれにより明らかに暴かれました。私は首をよこに回し、もうそれ以上話そうとしませんでしたが、感動のあまり、涙がいっぱいでした。

 ある段階、私たち何人かの修煉者は真相を伝えることと三退を勧めることだけを修煉と見なしてしまいました。実はこれは修煉の内包への曲解です。大法を学ぶことによって、ある程度法理が分かり、他の同修の問題を指摘するのがその同修のためであると思って、別に問題に遭う度に先ず内に向けて探すようにしなかったのです。自分を確実に修めていないため、私たちは一つに溶け込むことができず、いつも問題に遭う度にお互いに相手の不足を見てしまったのです。そして、たとえ自分の心性の漏れを見つけても、やはり、私に間違いがあるとはいえ、彼も間違っていると強調してしまい、別に無条件に内に向けて探すことはありませんでした。とうとうある日、派出所の警察が私たちを取り調べようとしているという情報をもらい、私たちは初めてお互いに協調し合うようになり、正念を持って、この妨害を解体し、徐々に修煉者に符合しないその状態から抜け出したのです。

 実は、私たちの他人に対する態度は、まさに自分の心性の現れなのです。私たちが本当に法に溶け込むことができるならば、きっとお互いに包容し合い、善意を持って接し合うに違いありません。

 最近、『法輪大法—オーストラリアの学習者に対して法を説く』を学んでから、心を修める正真正銘の修煉者になって、ことある度に、内に向けて探し、善意を持って同修と衆生に接するようにと決心しました。

 2007年10月26日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/22/165034.html