常に心を修めるように 文/中国大陸大法弟子 浄心
(明慧日本) 私は今まですでに9年半修煉してきて、もう古い弟子になり、更に一部分の大法弟子が、私のことを良く修めているというように見ているようです。しかし、問題に遭った時、自分は確実に修めておらず、内に向けて探すこともただ口先で言うだけで、本当に自分に向けて探すことや根本から自分を変えることがとても少ないように感じていました。長い間この状態が正しくないと分かっていますが、なかなか変えられなかったのです。
夜、私たちは集団で法を学ぶことにしており、1人が1段落ずつ読んでいるのです。ある時、私が読んでいたのですが、頭の中でもうちょっとすればどこそこまで読める、そうすると後何分で全部読み終えると思っていたのです。そして、一講を読み終わると、重荷を下ろしたかのように本を閉じてしまいました。しかし、この時私ははっと気が付きましたが、先ほどはあたかも本を最後まで急いで読み終わろうとしているかのようで、それで法の学習と言えるのでしようか? 師父が法の学習方法をこのように教えてくださったのでしょうか? 読みながら早く読み終わるのを望むなんて、これは間違いではありませんか? 同修は皆自分が法と同化するように望んでいるのに、私は早く読み終えてから他のことをやるのを望んでいるのです。法の学習は神聖なことです。それは大法弟子が向上する根本的な保障なのです。それなのに、私はごまかそうとしていました。自分は長年修煉してきたのに、まだこのような考えがあると思うと、自分でも驚きました。しかし、それは本当の私ではなく、本当の私は法と同化したいのです。その考えを排斥しなければならないと思いました。
夜、私はベッドに横たわって、ここ何年来、私はずっと形式的に法を学んでいたのだと思いました。たくさんの交流文章を読みましたが、いつもその時に感動を受けて、しばらくの間精進しましたが、後はまた怠っていたのです。私は広告業に携わっていますが、自分に割り当てられた売り上げを完成すると、ボーナスがもらえるのです。ここ何年間、もっと儲けられるように、いろいろ知恵を絞っていました。毎日出勤してから、今月の売り上げを完成したか、どのくらいのボーナスがもらえるのか、いつもらえるかと言うようなことばかり考えていました。同僚とお客を争うことで自分を疲れさせ、夜遅くまでお客を接待して、家に帰ってから、法もよく学ぶことができず、学べるだけ学んで行こうと思ったのです。
2005年の末ころから、私は法を暗誦してきたのですが、時間のないときはいつも1段落を暗誦して、これで今日は法を学んだと思って、翌日になって、また仕事のことだけに専念していたのです。つまり、その時、法を学ばなければならないが、仕事もよくこなさなければならないという心が潜んでいて、仕事をする時に、大法の要求で自分を律することがなく、わがまま勝手に振舞っていました。今になってその時の私はどんなに危なかったかが分かってきました。体裁のいい言葉で自分の執着を隠すなんて、それで修煉者と言えるのでしょうか?
このように法を学んで、自分を根本的に変えられるのでしょうか? 道理で妹にいつも修煉してきて、あまり変化が見えないと言われるのです。確かに、私は今までは法を学び、煉功する時には修煉しているように見えましたが、法を学び終わって、煉功し終わってから、煉功の任務を完成したかのように、常人社会に戻ってから、また常人のように考えたり、生活したりして、全然常に自分を修めるというように行っていません。
師父は「事々く対照し 做すところ到るは是れ修」(『洪吟』実修)、「煉功するには徳を重んじなければならず、良いことをし、善をなさなければなりません」(『転法輪』)と教えてくださいましたが、私はそのように行ったのでしょうか? 真相を伝え、衆生を救い済度するこの大事な時に、私はまだ法の学習をこんなに怠っているなんて、なんと危ないことでしょう。だから、もうこのままにしてはならない、その「わがまま勝手」な考えを徹底的に取り除かなければなりません。これから、法の学習と煉功以外の時間にも、常に自分を修めなければならないとつくづく感じるようになりました。
『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』を拝見して、とても感慨深かったのです。同修の皆さん、師父の慈悲なる済度を無にしないように、我々がこの世に降りる時の誓約に背かないよう、皆で心を修め、欲を絶ち、勇猛邁進しましょう。私たちは力を合わせれば、この迫害を終わらせて、更に多くの衆生を救い済度することができるに違いありません!
2007年11月6日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/10/30/165460.html)
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