■日本明慧 http://jp.minghui.org/2007/11/08/mh092525.html 



師と法を信じ、魔難を抜け出す(一)

 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)尊敬する師父、今日は! 同修の皆さん、今日は!

 瞬く間にまた一年が過ぎました。この一年来、如何に邪悪の迫害を否定し、魔難を抜け出したかという過程について、同修の皆さんと切磋琢磨させていただきたいです。

 二年前、私は同修とテレビを利用して、国民に真相を伝えたため、邪悪に迫害され、参与したほかの同修は皆不法に強制連行され、また不法に刑罰を下されました。私は悪辣な警察に十何時間尾行されましたが、師父のお守りのもとに、正念で振り払いました。しかし、邪悪はこれで止めるのではなく、その後また何度も私を窮地に追い詰め、二十何日後、同修が助けてくれたおかげで、やっと身を寄せるところが見つかりました。

 私は心を静めて法を学び、内に向けて探し、今度の迫害の原因を真面目に分析してから、自分の問題と全体の不足を認識するようになり、またそれを文章に書いて、同修と交流しました。当時、迫害が現れたのは私たち自身に不足があることを全体としてテレビを利用して、国民に真相を伝えれば、迫害されるに違いないという考えを持っていたからだと思っていました。だから、全体として、「テレビを利用して国民に真相を伝えると、迫害されるに違いない」という考え方を持っているという問題を指摘しました。しかし、自分もそのような考えを持っているとは思いませんでした。特に自分が邪悪な迫害を抜け出したから、自分は絶対その問題がないと更に信じ込んでいました。

 しかし、その魔難を抜け出してから、表面上邪悪の迫害を振り払ったかのように見えましたが、その後各方面で努力して、自分を厳しく律したにも拘らず、やはり邪悪の妨害を根本的に打ち破ることができず、体に正常でない状態がよく現れました。いつも何か無形のものが背中から覆いかぶさってくるように感じていて、絶えず正念を発し、取り除くようにしましたが、やはりその感じはあったりなかったりしました。

 ある日、急に右手の掌が痛くなり、それから、半身不随の状態が現れ、手があがらなくなりました。それは邪悪の押しつけたものだとよく分かっているので、それを認めず、いつもと同じように法を学ぶようにしました。自分の手を上げるようにと正念を発しましたが、やはり上がりませんでした。私の手は正常なのだ、この状態を認めないと心の中で思い、しきりに手を上げるようにして、やっと上がるようになり、それからまっすぐ伸ばせるようになりました。定刻になるごとに強大な正念を発して邪悪を取り除くようにしました。その晩私は一晩眠らず、法を学び、正念を発しました。そうしたら、翌日になって、すべては正常に戻りました。ところが、しばらく経って、また他の症状が出てしまいました。それに、いつも周りがとても危ないという気がして、やむを得ず引っ越すしかありませんでした。それは邪悪の妨害だと分かっていますから、絶えずそれを否定し、取り除くようにしましたが、やはり次から次へと妨害が現れてくるのです。

 自分の状態が正しくない、とても受動的であると意識しました。当時それは全体の環境に溶け込んでいないからだと思ったので、だんだん同修と付き合うようになり、形式上、局面を切り開きました。しかし、自分も迫害を黙認する考えがあると意識していないため、内心ではやはり自己を守ろうとしていたのです。同修に自分のことを特別に見ているのではないかとまで言われても、やはり色々弁解し、彼らは自分のことを分かっていないと思っていました。

 後で内に向けて探し、確かに自分が他の人と違うという考えを持っていると気づくようになりました。何事も昔のように堂々とやれなくなり、いわゆる「安全」に注意していて、引っ込み思案で、人為的に自分を制限しているのです。当時心の中ではそれほど恐れていませんでしたが、後になって恐れるようになり、今度の魔難がとても大きいと無意識に思ったのです。昔何か魔難があると、今度のように「注意」することなく、直ぐにそれを乗り越えたのに、なぜ今度だけこんなに特別に「注意」しているのでしょうか? それはテレビを利用して、国民に真相を伝えたからでしょうか? 或いは邪悪がまだあっちこっち私を探し、指名手配したからでしょうか? もちろん私はわがまま勝手に振舞ってはならず、安全に注意しなければなりません。しかし、心の中で自分を封じ込め、邪悪の按排を受け入れ、それらの迫害を認めるようにしてはいけません。

 私が自分の心を掘り出してみると、内心の深いところでは確かに今度は昔と違って、そもそも邪悪があっちこっち私を探しているし、それに今度またテレビを利用して、国民に真相を伝えたので、きっと私に対してどうこうするという考え方を持っていると意識しました。自分が自分のことを特別に思うなら、邪悪も特別扱いをするわけです。昔、それらの問題を見つけることができず、自分は「正念が強い」ということだけ思い、内に向けて探し、これらの要素を取り除くことをしませんでした。私はあえて勝手に出入りもせず、恰もこのようにすれば、安全を疎かにして、見つけられるに違いないと思い、どんなことをしても、それらの迫害を防ぐという心を持っていて、自分をとても小さな範囲に封じ込めて、自分の事情が特別だから、このようにするしかないと思い、またこれを理性的であるように思いました。法を学ぶ時、学べば学ぶほど、私はこの状態が正しくないと感じるようになりました。というのは、法の中にはこのような要求がないからです。

 師父は「もし大法弟子が皆正念を持ち、正しく行うことができ、いかなる情況下でも正念で物事を考え、すべての弟子が迫害の前で恐れる心が生じなければ、誰があなたを迫害し得るのでしょうか! 完全に法に則っている人を誰もが動かすことができません。これで自分を守る能力を備えたことになるのではありませんか? 実は迫害が始まる前の古い学習者を私は全部到達すべき位まで押し上げました。後からの新しい学習者をも含めて、正念を持ち、正しく行うことができれば、自分を守ることにまったく問題はありません」(『2005年サンフランシスコでの説法』)と教えてくださいました。

 私はなぜ自分を守れないのでしょうか? このようにすれば、どうやって衆生を救い済度することができるのでしょうか? なぜこのように消極的に耐えて、この状態から抜け出せないのでしょうか? 私の問題はどこにあるのでしょうか? 私は本当に何も恐れることはないのでしょうか? この全てに直面して、その「特別」という考えの裏に一体何が潜んでいるのか、私は真面目に内に向けて自分を探さなければなりません。

 なぜその状態から抜け出せないのでしょうか? その原因を分析してみれば、一つはテレビを利用して、国民に真相を伝えることを特別に見てしまったからです。その裏には迫害を認める心があります。法を学ぶ時には、邪悪の迫害を認めてはいけないという法理が分かり、正念も強かったのですが、テレビを利用して、国民に真相を伝えるという現実を前にすると、正しい信念が足りなくなりました。テレビを利用して、国民に真相を伝えたため、たくさんの同修がひどく迫害されたし、テレビを利用して、国民に真相を伝えることは邪悪への震動が最も大きく、邪悪の一番恐れることです。だから、中共政権の党首が直接に迫害を指揮し、邪悪もあっちこっちで私を探しているのです。私も重点人物で、指名手配されています。邪悪が簡単に私のことを手放すことはないだろうと私も思ったし、たくさんの同修もこのように思ったのです。この旧宇宙の観念と迫害される「現実」に、自分が迷ってしまい、それは迫害を認める原因の一つなのです。

 我々がテレビを利用して、国民に真相を伝える時に、大体は十分な正念を持っているし、魔難を乗り越える時も正念で邪悪の迫害を否定しているのです。しかし、なぜ後になってかえって恐れてしまい、人心に従い動じてしまうのでしょうか? 法理上分かっているのに、なぜ実際のことになると、師と法を信じることなく、幻像に迷ってしまうのでしょうか? 師父は「正念をもって物事に対処する」ことを教えてくださり、これは慈悲で偉大な行動だと認めてくださったのに、私は観念を変えたのでしょうか? 私たちはこの迫害の虚像に惑わされ、長春でテレビを利用して、国民に真相を伝えたため、五千人も捕まったことや、各地でテレビを利用して、国民に真相を伝えた同修がひどく迫害されたことが頭に焼き付けられて、長年来、中共政権の高圧、洗脳、厳しい制御により歪んだ、受動的で奴隷根性的な思惟方法と自己保身の私心が形成され、いつも無意識のうちに自分の損得、自分の安全を真っ先に考えてしまいました。

 この人心を持っているせいで、邪悪の見せしめという企みを許したのです。しかし、法に則ってこのことを見ると、この偉大な振る舞いで何万人もの人に真相を分からせ、他の空間で邪悪を震え上がらせ、取り除くことになり、更に、国際社会に巨大な影響を与え、どれだけ多くの人の偏見を変えさせ、真相を分からせ、それにより、大法を敬重し、刮目して法輪功を見直すようになったでしょうか? 私たちはなぜこのことを行うのでしょうか。それは正に人を救うためではありませんか? それは私たちの責務であり、邪悪がいくらはびこっても、圧力がいくら大きくても、私たちもどっしりとした正念を持たなければなりません。

 「修煉とは実に難しいもので、天が崩れ地が陥没し、邪悪が狂ったように迫害し、生死に関わる時であっても、依然、あなたの修煉の道を確固として歩み続けられるところに難しさがあり、人類社会のいかなる出来事も修煉の道の歩みを阻みはしないのだ」。(《『精進要旨 二』「道」)

 自分と多くの同修はこの問題に正念で対処できず、邪悪の迫害を黙認したからこそ、テレビを利用して国民に真相を伝えたことに対する邪悪の迫害はこんなにもはびこったのです。もし私たちがその時の虚像に心が動じることなく、一人の大法弟子、本当に修煉者の立場でこのことを見れば、テレビを利用して、国民に真相を伝えることは邪悪をこんなにも震え上がらせ、更に多くの人に真相を分からせることができ、師父も偉大な行動だと教えてくださった以上、それは師父の要求であり、もっとも正しい、大法弟子の最もやるべきことで、如何なる生命も関与する資格がなく、更に如何なる口実をつけて迫害してもいけないのです。参与したそのものが罪を犯すことになるというように認識すべきでしょう。邪悪は今でもまだ悪事を働き、同修を迫害しているにも拘らず、私たちはそれらの行動に心が動じることなく、それらのすべての邪悪な按排を否定し、我々の行うべきことをやり通し、正念で同修を加持し、テレビを利用して、国民に真相を伝えることを加持し、大法弟子を迫害する他の空間での邪悪を一掃するようにします。もし私達全体がこのように行えれば、邪悪はまだあえて迫害する度胸があるのでしょうか? それらが悪事を働くことがまだ許されるのでしょうか? 私はこの状態を抜け出せないのでしょうか?

 (続く)

 (第四回中国大陸大法弟子修煉体験書面交流会交流原稿)

 2007年11月8日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/4/165774.html

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