■日本明慧 http://jp.minghui.org/2007/11/10/mh113497.html 



長期の病業に悩む修煉者について、現地同修の見解

 文/中国大陸の法輪功修煉者

(明慧日本) 2001年より、地元の何人かの修煉者が長期にわたって病業に煩わされてきました。症状の重い者と軽い者がいますが、最も長い症状は3年にわたっています。短いものでも半年続きました。2007年初頭以来、病業に煩わされる修煉者の数が増えてきました。私たちの住む地域には、病業の症状が出ている修煉者が数人おり、中には危険な状態にある者もいます。これらの修煉者を助けるために、私たちは一団となって正念を発し、法を学び、体験交流を何度もしました。自宅で学法のグループを作った者もいますが、余り効果はありません。これらの修煉者が日に日にやせ細っていくのを目にすることは、心底堪え難いものです。しかし、問題がどこにあるのか分からず、どうしたら助けられるかも分かりません。この状態に関して、個人的な見解を述べたいと思います。もし、不適切な点がありましたら、慈悲を以てご指摘願います。

 なぜこの一握りの修煉者が長期にわたる病業に煩わされるのでしょうか? 理由はとても複雑ですが、旧勢力の按排が要因であることも考えられます。関に出くわした時、充分に警戒しておらず、病業を招いてしまいます。病業の症状が出た後、正念が弱いため、長い間、関を突破することができないのです。このため長期にわたり病業の状態に陥ります。病を治したいという執着心を取り除けないことが最大の原因で、特に病業のため、見た目は重体です。

 師父は次のように言われました。「あなたの体に現れた病業は、関を乗り越えるためのものであり、見た目は、必ず病業の状態になり、決して神が病気にかかるような現れではありません。それなら、正念で対処すべきです。あなたは修煉者だからです。ですから、それは決して本当の病気ではありません。しかし、その現れ方は単純なものではありません」。(『ロサンゼルス市での説法』)

 法に照らしてみると、これら少数の修煉者の病業が長期にわたって取り除かれないのは、病を治すという執着心が捨てられないことが主な原因であると悟るようなりました。このような修煉者は、法を実証する活動を数多くしていたり、地元の修煉者の間では高く評価されたりしている場合もありますが、この執着心が取り除けないため、病業の関が大きくなり、突破することができないのです。人間の考え方と神の考え方にはわずかな違いがあるに過ぎません。しかしこの違いが、全く異なる結果を生み出すのです。

 地元の中年の女性修煉者の場合、2003年にナイフでお腹が切られるかのような激痛が突然走りました。すさまじい病業でしたが、その時彼女は師父の言葉を思い出しました。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(法輪仏法:法の中に溶け込む)。「既に法を得ているのに、何を恐れているのか? 全て師父に任せ、私は大法弟子がすべきことをしよう」と正しく念じ、法を学び煉功も以前通りに行いました。本人の気付かないうちに、腹痛はなくなりました。

 本人だけの原因ではなく、一握りの修煉者が長年病業から抜け出せない事実には、その地域の修煉者全ての全般的な修煉状態と関わっていることがよくあります。これら一握りの修煉者の状態は、あまり精進に励んでいない修煉者に影響を及ぼします。これらのあまり熱心でない修煉者が関に遭っている修煉者に対して考えを抱いてしまうと、苦しんでいる修煉者に影響してしまうのです。

 師父は次のように言われました。「以前、『煉功点のこの人の行いが本当に素晴らしいので、彼のように行いましょう』と言っている人がいました。皆さんに教えますが、くれぐれもこのようにしてもならず、考えてもいけません。修煉の人は誰それを手本にしてはならず、法を師とすべきです!(拍手) 皆さんが一旦このように行い、考えてしまう時、二つの問題が現れます。一つは、その学習者を死滅への道に追いやってしまい、旧勢力は彼に問題を生じさせ、ひいては死なせてしまい、これによってほかの学習者に試練を与えようとしています。『あなたたちは彼ばかり見ていて、こういう情況になったら、まだ大法を学ぶのか、修煉を続けるのか』と旧勢力が思うのです。こういうとき、『彼もだめになったら、私などは大丈夫でしょうか』と思って、すぐ動揺してしまいました。これでは、旧勢力に隙に乗じられてしまったのではありませんか? 師父である私さえ何も言うことはありません! 『見て御覧なさい、この試練の結果はどうでしょう。私たちは正しかったでしょう』と旧勢力は言うのです。ですから、正念が強くなければ、常人の心が動かされてしまいます。くれぐれも気をつけてください。法を師とすべきです。誰それの修煉を見て、それを手本にしてしまい、法を勉強しないということをしてはいけません」。(『ニューヨーク国際法会での説法』)

 長年、病業に苦しんでいる修煉者の話を耳にしたら、正念と、神の心を以て、法に照らし、これは旧勢力の迫害であり、修煉者が病に苦しむことはないと、心底理解すべきです。これらの修煉者の背後にある邪悪な生命、要素を一掃するため、正念を発するべきです。こうして、修煉者が正念で試練を乗り越えることを助けます。同時に私たち自身も内面をみつめ、長年、捨て切れなかった人間的な執着、特に病気治癒への執着があるかを確かめ、最近の関をどう乗り越えたか、そのたびに自分の心性が高まったかを自問自答する必要があります。一人一人の修煉者のこうした態度は、苦しみにある修煉者が病魔から早く抜け出す大きな助けになります。

 病業が長く続き過ぎた地元の修煉者の中には、肉体的にも精神的にも痛みに耐えかね、親戚に無理に病院へ連れて行かれた者もいます。これは単なる修煉の一貫に過ぎません。その後、精進に励めば問題はありません。病院に行ったことでさらに苦しみ、新しい執着を生み出してはいけません。

 法に照らして明確に理解すべきことがあります。病院に行って病状が良くなった(実際は病業が先送りされた)修煉者が出た場合、本人も、法をあまり勉強していない周りの修煉者も、病院が病を治したと思い込んでしまい、師父と法に対する修煉者の確固たる信念を破壊するため旧勢力が作り上げた幻想であることに気付きません。関に遭いそれを乗り越えることができなければ、常人になってしまいます。

 師父は次のように言われました。「神がどうして、常人に病気を診てもらうのでしょうか? 常人がなぜ神の病気を治すことができるのでしょうか?(拍手)(師父 笑)これは法理なのです。しかし、表面では、あなたは本当にそれほど強い正念がなく、正しく判断できないとき、病院に行けばよいのです。心が不安になっていること自体、基準に達していないということで、そのままにしても、変化はありません。面子のために我慢し続けていれば、執着に執着が重なることになります。この場合、二通りの選択しかありません。一つは病院に行って、関を乗り越えることを止めます。もう一つは、心を徹底的に放下し、れっきとした大法弟子らしくなり、怨みも執着もなく、残るか去っていくのかを師父の按排に任せます。このようにすることができれば、つまり神なのです。(『ロサンゼルス市での説法』)

 2007年11月10日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/7/24/159384.html

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