日本明慧
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いくつかの体験談


 文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)一、真相を伝える時、私はいつも困難を恐れる心を持っていました。私を理解してくれないこと、大法を誤解することを恐れていました。邪党に深く毒害されている人や社会階層の高い人に真相を伝える時、「私のことをどのように見ているだろうか」とまで心配するのです。ある日私は、はっと悟ったのですが、私のこの考えの裏に、皆私(し)のためという心が潜んでいるのです。人に誤解されることや軽視されることを恐れるのは、つまり、自分のことを気にしているからではないでしょうか。しかし、なぜ世の人々のことを先に考えないのでしょうか。自分の名誉や損得のほうが大事なのでしょうか、それとも世の人々が救われることは大事なのでしょうか。もし誤解され、軽視されることを恐れるため、それらの人を救おうとせず、それにより、それらの人が将来本当に壊滅されてしまうとすれば、将来自分が本当にすべての人に軽視されることになり、また大法弟子という称号に相応しいと思うのでしょうか。

 二、ある時、最近何をやっているかと同修に聞かれた時、安全面のことを考慮したため、子供がもうすぐ大学入試だから、子供の面倒を見ていると答えました。その同修が後日、明慧ネットに投稿した文章の中には、私が大学入試を受ける子供の面倒を見るために三つのことを行わない、と書いたのです。その同修は家庭をまだうまく圓容できず、つい数日前に彼女が他の同修と付き合ったことを理由に家族の人に殴られたのです。この文章を読んでから私は機嫌が悪くなり、「自分はあんな状態になったくせに、まだ内に向けて探すことをせず、ひたすら他の人の揚げ足ばっかり取っている」と思いました。しかし、後で落ち着いて内に向けて探してみると、表面上は同修に誤解されたように見えますが、深い所まで掘り出してみると、実は同修に指摘された執着は皆自分が持っているのです。同修がよく行っていないからと言って、私の不足を指摘してはいけないのでしょうか。同修に指摘されたから反感を持つなんて、それは人に言われたくないという心を持っているからではありませんか。内に向けて、自分の執着をたくさん見つけました。

 三、私はある同修と協力し合いながら一緒にうまく三つのことをやっていました。しかし、急にその同修は私のところに来なくなり、私は何回も彼女に会いに行きましたが、とても冷淡にあしらわれました。そこで、私は他の同修を通して、一体どうしたのかと彼女に聞き、またもし私に間違いがあれば指摘してほしい、やはり一緒に協力をしながら三つのことをやりたいという意思を彼女に伝えました。しかし、いくら努力しても、一向に好転の見込みがないので、私は怒ってしまい、彼女のことを恨むようになり、「お金や、パンフレット、本と経文がほしいと言われたら、何でもあるだけあげてきたのに、こっちのものを全部取ったら私を無視するなんて、まったく話にならない」と常人の心も出てきて、同修より常人の中の友人のほうがよっぽど信頼できると思い、三つのことをよくやらなくなり、しばらくの間、どの同修にも会いたくなかったのです。

 後で、心を静めて法を学ぶと、同修のこのようなやり方も偶然のことではないと分かるようになりました。つまり、長い間私は同修に依頼する心がとても多かったのです。修煉には見本がない、誰でも自分の道を歩まなくてはならないと師父は教えてくださいましたが、私は状態の良い同修を見本と見なし、ことある毎に、自分で乗り越えるように努力するのではなく、すぐに同修に頼ってしまったのです。もちろん、皆で協力して何かを行う必要があり、その威力も大きく、更に大きな作用を果たせるのです。しかし、いつでも何でも同修に頼ってはならず、人に学ぶのではなく、法を師にすべきです。だから、衆生を救い済度するにあたって、自分の才能を生かし、自ら進んでさまざまな事をやらなければならず、自分の修煉の道をしっかりと歩まなければなりません。

 これが分かると、恨みも晴れして、また精一杯に三つのことをやるようになりました。

 以上、個人の体験ですが、正しくない所がありましたら慈悲なるご指摘をお願いします。

 2007年11月11日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/6/166056.html