日本明慧
■印刷版   

『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』を拝見しての感想


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)私たちの地区の同修は師父の『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』を拝見して、みな師父の洪大な慈悲に感動を受けました。多くの同修は涙を流しながら見ていたのです。師父は繰り返し言い含められました。師父は安心できず、私たちのために焦っておられ、常人社会に戻ってから師父の説法を忘れてしまうのを心配されておられます。師父の指摘されたオーストラリアの修煉者全体に表れた問題も、実は私たちの地区にも存在しているのです。師父の今度の説法に照らし、最近わが地区の同修が強制連行された事件と結びつけて、無条件に内に向けて探し、法に則ってそれらのことを認識し、法理に基づいて全体の向上を求めようと、わが地区の同修は小規模の交流会を開きました。

 一、自己を実証する問題

 師父は大法弟子が自己を実証する問題を重点に説かれました。実はこの自己を実証する問題は、いろいろな表現があります。同修の間だったら、皆で何かを論議する時に、一方的にまくし立てたりするという現れがあります。はっきりした狙いがあって発言するのではなく、自分の話は問題の解決に役立つかどうかを考えず、問題を解決するために発言したかのように見えますが、実は自己を実証しようとしているのです。それから、同修の問題を見かけると、別に相手の立場に立って、如何にして本当に相手を手伝うかを考えるのではなく、自分の考え自分の悟った法理を否応無しに相手に押し付けるのです。時には自分の常人の観念を交えることもあります。

 師父は私たちの心をはっきりと見透かしておられるのに、このようにしたら、どうですかと相談する形でおっしゃっておられるのです。師父は「もし一人の人がまったく自己の如何なる観念を持たず、自己の利益の立場に立たず、それを出発点とせず、本心から他人のため、相手に彼の足りないところを話し、あるいは相手に正しいことを教えるならば、相手はきっと感動し涙を流します」(『シンガポールでの法会における講法』)とおっしゃったことがありますが、私たちは同修の不足を指摘する時に、師父の要求された通りに行っているのでしょうか。この問題はとても深刻で、すでに同修間の交流を妨害しているのです。師父の説法をみな理解していますが、実際の問題に直面すると、往々にして自己を修めることを疎かにしてしまいました。今度、師父が立ち去る前にまた繰り返し言い含められたのは、このようなことがまた起こるのを心配されたからではありませんか? 世の人々に真相を伝える面でも自分を実証することがあり、相手の疑問点を解らず、自分の考えで一方的に話すことがあります。そのようにすれば、逆効果になってしまい、理解されずに、おかしく思われることもありうるのです。師父は人を救おうとすれば、その人の執着に従って話すべきだとおっしゃいましたが、我々が真相を伝える目的は人を救うためであり、自分を実証するためではありません。

 二、無条件に内に向けて探す

 師父の今度の説法の中でもう一度、無条件に内に向けて探すことの重要性を強調されました。我々が常人とトラブルを起こしたとき、その時点で私たちは既に常人の次元に落ちたのです。つまり、神が人とトラブルを生じることはなく、人とトラブルを生じたのは必ず人なのです。それから、同修とトラブルがあった時、それも内に向けて探さなければなりません。つまり、師父が与えてくださった修煉方式というのは、修めて出来上がった部分はすぐ師父によって隔てていただき、世の中に残ったのはまだよく修めていない部分なのです。そして、その良くないところが暴き出されたら、それを取り除くようにしなければなりません。このような修煉方式のため、相手の修めて良く出来上がった部分は見えず、私たちはお互いに見えたのは大体が相手の問題点なのです。だからこそ、何かトラブルが起こると、私たちは必ず内に向けて探し、執着を見つけてから取り除くようにしなければなりません。そうすればこそ、全体として向上できる環境が作れるのです。

 最後にもう一つの問題は、多くの同修は内に向けて探すべきだと分かっているが、どのように探せばいいか分からないということです。時には、常人の方法で探し、更に、邪党文化のような自己批判式の探し方になることもあります。或いは、表面に留まるだけで、根本まで探しません。よく「あることを言わなければよかったのに」とか、「あることをしなければよかったのに」とかいうような話を聞きますが、それは師父の教えてくださるような内に向けて探すことではないと思います。修煉者としての内に向けて探すことは大法に則って、自己の心を探し、執着を持っているために心が動かされたことを探すべきだと思います。もし執着がなければ、我々は如何なる状況でも平然として心が動かされないという状態だと思います。もし心が動かされたとすれば、必ず裏に何か執着があるに違いありません。このようにすれば、その執着心を見つけ、取り除くことができるのです。内に向けて探す目的も正にここにあるのではないかと思います。また内に探すのは無条件であるべきで、条件を付けて探すことは正真正銘に内に向けて探すことではありません。どんなことが起こっても、どんな状況の下でも、内に向け探さなければなりません。当事者でない時でさえも、見かけたなら自己を探さなければなりません。もし本当に内に向けて探す環境を形成できれば、全体として必ず大きく向上することができるのです。そうすれば、師父が私たちのために、心を煩わされなくてもよくなるでしょう。

 三、人に依頼する心

 師父は今度の説法の中でまた人に依頼する心の問題、つまり一部の修煉者は佛学会に管理してもらいたい気持ちがあることについておっしゃいました。私たちの地区でも二つの方面で、人に依頼する心の表れがあります。一つは何か問題にあった時に、法に則って認識し自己を高め、師父の要求どおりに自己の行うべき事を良く行い、法を正す時期の大法弟子の責任を担うのではなく、よく修めている同修のやり方を真似したりするのです。師父は修煉には手本がないとおっしゃいました。大法弟子はみなそれぞれ自分の道を歩み、自分の威徳を築きあげるべきです。そうでないと、円満成就してから、どうやって自分の世界が管理できるでしょうか。もう一つは一部の同修は技術が分からないことを口実に、すべての資料を同修に提供してもらうようにして、自分で解決できることでも他人に頼むということです。そうすれば、資料を作る同修は法を学ぶ時間も保障できず、圧力がとても大きいです。この状態が長く続けば、これらの同修に害を与えることになりかねません。実は明慧ネットの交流文章には、この教訓に言及するものが多くあるのです。如何なる事でもまず相手のことを考えなければならないと師父がおっしゃいましたが、こんな時に、なぜ我々はこれらの同修に配慮を払わないのでしょうか。他人に依頼する心は同修を害することにもなるし、自分のためにもならないので、取り除かなければなりません。

 師父の今度の説法を学んで、他にまだ多くの会得がありましたが、以上の三つは私たちの地区で全体に表れた問題なので、以上のようにまとめました。同修の皆さんから慈悲なるご叱正をお願いします。

 2007年11月13日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/30/165463.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/11/10/91234.html