無為について 文/中国延辺大法弟子
(明慧日本)無為の中には主観観念や人の要素、自己がないという内包が含まれていると思います。
修煉し始めたころ、私は無為の内包をよく理解できず、人の認識で理解していました。つまり、自分の利益のために法を学び煉功していたので、随分努力したのに向上するどころか、かえってたくさんの執着が出たように感じました。精進しようと思えば、何かの妨害があると感じ、自然の成り行きに任せようと思えば、また立ち遅れるような気がして、進退極まる境地に陥って長くそれを正しく関係付けられませんでした。いろいろ深く考えて、内に向けて探し、やっと根本的に、私は自分のために修煉しているという執着があると分かるようになりました。長い間、私は「修は己にありて、功は師にあり」という法理を理解できず、自分の力で修めて行こうと思っていたのです。
人は無能なのです。すべては皆神によって按排されています。修煉できることや法を得ることでさえも既に神によって按排されたのです。ただ人間は無知の中で自分の経験で神のことを想像し、自分が自分のことを按排できると思ったにすぎません。我々大法弟子でも無意識的にこのように人心で法に対処し、旧勢力の按排した道を歩んでしまうこともあります。
例えば、我々は何かをやろうとする時に、別にそのこと自体に何か問題があるのではなく、往々にして、人としての観念を信じたとか、自分を実証したいため、全体のことを考えるのではなく、自分の団体の利益だけを考えるというような私(し)のためにという人心を持ったから、うまくいかなかったのです。旧勢力は我々の人心に応じて、相生相克の理に基づいて、魔難を按排したのです。師父も真相を伝えることに旧勢力があえて反対する勇気がないが、それを行なったときの心理状態で邪悪に隙に付け入れられたのだという法理を教えてくださいました。修煉の理は常人の理と正反対です。だから、修煉者が何かを行う時に、黙々と落ち着いて私の念を持たずに行うべきです。
三つのことは大法弟子の行わなければならないことです。心が法に則って、個人の損得を考えず、人心もないとすれば、旧勢力も迫害の口実がありません。迷いの中で何か行う時は、目で見える表面的なことしか感じられないので、修煉者は、ややもすれば表面的な現象に拘って、表面上の雄大さを追求し、表面上の効果でよく修めたかどうかを判断しがちです。
今後、我々は別に他人に認められるために精進し、表面的なことに満足するのではなく、内心から法に同化しなければならないと思います。我々が法に符合した行為は衆神に認められるのです。
以上は個人の次元に限られた認識ですが、法に符合しない所があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
2007年11月13日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/10/31/165640.html)
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