常人が同修を悪く評価する時
文/中国大陸大法弟子
(明慧日本)昔、真相を伝える時、よく常人が同修を悪く評価することに遭いました。そのような時、私はいつも話題を逸らしたり、或いは「いくら純粋になってもまだよくないところがある」「それは特殊な状況だ」という返事で誤魔化して、心の中では同修がよく行わないから、大法に泥を塗っているのだと不満に思っていました。
近頃、私は再びこのような状況に遭遇し、先ず内に向けて探すことにしました。すると、程度は違いますが、他人に八つ当たりする心や、自分がひたすら常人の観念に付和しようとする心、他人を評価して喜ぶ心、同修の執着に執着する心があると気づきました。そして、この問題に関して同修が書いた交流文章を読み、正念をもって、法に基づいて対処しなければならないと思うようになりました。
最近、私は真相を伝えた相手から、自分の親戚に大法弟子がいるが、年寄りの女性で、とてもいい人だが、「あまりにもおぼれている」「可笑しい」と言われました。その人はまた、師父に対しても、表面上では誉めているようで、実際は誹謗するようなことも言いました。私は正念を発しながら、その悪く評価されている同修のことをもっと詳しく聞くことにしました。その人によると、同修は、食事の前後にいつも大法の本を読んでいるとか、普段も大法の本を読んでいて、あまり常人のことに興味を持っていないとかいうことを答えてくれました。私は、家事をしなかったり、家族の人に取り合わなかったりするようなことがあるかと聞くと、そんなことは無いと答えてくれました。そして、私は次のように答えました。どんなことも、断片的に見てはいけません。私は学生時代、寮に住んでいた時、毎晩消灯してから、布団を被って、懐中電灯を点けて小説を読んでいました。このようにしているクラスメートはたくさんいましたが、私たちの行動が異常だといえるでしょうか。小説の作者がよくないといえるのでしょうか。常人の中には寝食を忘れて、マージャンをしたり将棋を指したりする人がいますが、マージャンと将棋がよくないと思う人はどこにもいないのではありませんか。実は中国人は党文化にひどく害毒されていて、何事も利益があるかどうかに基づいて判断しており、利益があれば、殺人を犯しても放火してもおかしくないが、利益が無ければ、よいことをしても人に理解されなくなってしまいました。迫害がこんなに深刻な時、その同修はまだ法を学び続けているのです。それは、大法の書籍の中で説かれた道理が、実は貴重な真理であることを証明しているのではないでしょうか?
この話を聞くと、その人はしきりに頷き、納得するようになりました。それから、チャンスがあれば、その同修のところを訪れ、励ましてあげてほしいと言うと、その人も認めてくれて、最後には別名で邪党組織を脱退することにも同意してくれました。
また有る時、真相を伝えた相手は、「法輪功は異常だ。知り合いの大法弟子が狂った。毎日町で煉功している」と言いました。すると、私は体を鍛えることは、交通を妨害することもなく、他人を邪魔することでもないので、何ら異常なことではない、と答えました。元々相手は凶悪な勢いで話していましたが、この話を聞くと、何も言えなくなり、彼が大法に対して犯す罪がこれでひとつ免れることになりました。
だから、常人が観念で大法弟子を評価する時、私たちは必ず法理に基づいて正念を持って思考し、常人の観念に従って考えてはいけません。常人の評価は大体、個人の損得や好き嫌いに基づいて判断しており、私たちは彼らのそのよくない要素を助長してはいけません。ましてや、今の修煉環境はとても複雑であり、大法弟子が耐えた魔難は、とても常人には想像できないものです。どうして常人の片言に基づき、簡単に大法弟子をマイナス評価できるのでしょうか?もし常人がまた「おぼれた」「走火入魔になった」「家族を顧みない」ということを言ったら、ちょうどそれをきっかけに大法弟子が迫害されていることを堂々と伝えようではありませんか!
個人の次元に限られた悟りです。同修の皆さんからの慈悲なるご叱正をお願いします。
2007年11月14日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/6/166066.html)
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